三八度線を越えて
佐藤末子は1920年(大正9年)、福島県の船引き町(現・田村市)で生まれた。21歳で結婚。嫁ぎ先の三春町は、「日本三大桜」の一つ、樹齢1000年を超える「三春滝桜」で知られる小さな街である。夫の誠は通信担当の軍属として満州(現・中国東北部)に出征した。40年(昭和15年)、末子も満州の首都・新京に渡った。
戦況が悪くなり、突然、夜中に疎開命令が出た。ソ連軍の攻撃である。末子は暴徒に襲われないよう坊主頭にした。そこからの地獄を、末子は詳しく書き残している。
「着のみ着のまま主人と別れ別れに成り、主人は関東軍のほうへ、私と二人の子供は平壌へ下り、そこで終戦となりました」
5歳と2歳の子を抱え、末子は鉄道司令官の清掃員として働いた。「ソ連兵は日本の婦女子をさらっていく」という話が広がっていた。
「帰宅して子供の顔を見ると、1日無事に過ごせたことが何より幸いだったと思い、その日その日が闘いでした」。
翌年9月、帰国できると聞いた。1週間分の焼米(保存食)を持ち、2歳の長女を背負い5歳の長男の手を引き、朝から晩まで歩き続けた。力尽きた人が次々と倒れていった。
川が多かった。ずぶ濡れになって渡った。8日目、朝鮮半島を横断する三八度線まで来た。昼間は越えられない。
「登り8キロ、下り8キロの険しい山道で、真っ暗だが国境ゆえに明かりをつけることができず、頭に白いものをかぶりそれを目標に歩く・・・・・声を出すこともできず、子どもは靴ずれと雨に濡れて泣き、背中の子どもは動くこともなく、死んだのか生きているのかわからない状態で山を下りました」。
飲まず食わずで丸1日歩き続け、港から帰国船に乗った。2歳の長女は痩せ細り、高熱が続いていた。
「何の手当てもできず、医者がいても薬がない。死人がどんどん甲板から薦(こも)に包まれ海に落とされる。(長崎の)佐世保が近づくにつれて山々が見えると懐かしさでいっぱいになりました」。
佐世保港に着いた。伝染病検査で下船まで1週間ほど待たされた。長女のツヤ子は船の上で息絶えた。
夫の誠は無事帰国していた。しかし末子の苦闘は続いた。それまでの無理がたたり、国立郡山病院に2年以上入院した。肺結核に加え脊椎カリエスや多くの臓器不全に苦しんだ。「ここでは手の施しようがない」と医師から告げられ退院。横浜に移り住み、東京都内の病院を回った。
「どこの病院に行っても治療方法がないといって入院させてくれませんでした。生地獄とはこの事かと思い、くる日もくる日も薬と注射で生きている毎日でした。ある日近所の奥さんが訪ねて来られ、信心すれば病気はなおり、生活は楽になり、どんな悩みも解決すると聞かされました。この世の中にそんな事があるかしらと信じられませんでした」
1951年(昭和26年)の夏のことだった。当時、長男も肺結核で学校を休んでいた。本当に自分も息子も治るのだろうか。末子はこれまで何度も死を決意し、死にきれなかった。夫の誠が猛反対したが説得し、信心を始めた。