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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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「背に焼けた鉄板を1枚入れたるが如し」 ②


 秀山荘の部屋には本が多かった。

「いつもあんなに忙しい部隊長だ。本当に読んでいるのだろうか」。池田の帰宅を待つ間、興味津々の一人が本棚から一冊取り出した。ページを開くと赤鉛筆の傍線や書き込みが目に飛び込んできた。もう一冊、なるべく難しそうな題名の本を手にした。それにも線が引かれていた。

 「六畳の洋室は、室内の四囲、中央に二列と、数本の書棚で一杯。その書棚には書籍がギッシリと詰まっていました」。第一部隊の班長だった曽根原敏夫の証言である(「聖教新聞」1999年12月26日付)。

 「記憶に残っているものだけでも『ブルターク英雄伝』『日本文学全集』『世界文学全集』『三国志』『水滸伝』、ホイットマンなどの詩集、百科事典など、そのおびただしい数にびっくり・・・・・戸田先生に師事してから、これらの本を全部古本屋に売ろうと思ったが、仏法を学び、戸田先生からいろいろなことを教えていただくと、すべて活きてきたとも話されていました」(同)

 

 曽根原は池田の話が毎回、多岐に渡ることに舌を巻いていた。こうも証言している。

「(話は)歴史、科学、小説、詩、哲学など、社会全般にわたる書物書物から引用されたものでした。昼は仕事に夜は活動に多忙を極めるなか、しかも男子部のメンバーに、激励の和歌やメッセージを贈られるなかでのことです。

 私は失礼と思いながら『部隊長はいつ勉強されるのですか?』と質問したことがあります。その時、先生は『私の話していることはすべて戸田先生から教えていただいたことだよ』と話されました」(同)。


 3日ほど前ヒップアップのメンバーで、俳優の小林すすむさんが58歳の若さで他界されました。


 私は「オレたちひょうきん族」という番組が大好きで、ひょうきん族が終わる時に、リクエストの回と、9年間のキャラクターがすべて登場する、最終回の2週を録画していました。


 ヒップアップのネタもビデオに録画してあったので、10数年ぶりに見ました。

今見てもとても面白いです。


 ひょうきん族の最終回のビデオをみていたら、お亡くなりになったメンバーの方がかなりいたことに気がつきました。


 リクエストの回にゲストででていた大原麗子さん、ホタテマンだった安岡力也さん、ものまねが上手くて面白かった太平シローさん、ごっくん娘として山本リンダさんと一緒に出演していた日吉ミミさん、マイケルジャクソンのスリラーのパロディーが素晴らしかったウガンダさん、島田紳助と漫才コンビを組んでいた松本竜介さん、以上の方々が亡くなられたひょうきん族にレギュラー出演されていました。


 とても残念に思うと共に、20数年の時の流れを感じました。



「背に焼けた鉄板を1枚入れたる如し①


 1953年(昭和28年)、東京・墨田区。朝の錦糸町駅前に、中村慶和(高知牧口県議長)ら男子部第一部隊の面々が、軽快な足音を響かせる。彼らの多くが下駄をつっかけている。着ているのは菜っ葉服(=作業着)や、着古してつるつるになった学生服ばかりだ。

 行き先は大森駅近くのアパート秀山荘。部屋の主は第一部隊長の池田である。赤ん坊を抱えた妻の香峰子が出迎えた。

「主人はまもまく帰って来ます。ここにあるものは自由に見てもらって結構ですので、ゆっくりお待ちください」。

 玄関を入って左の洋間。机の上には作業・中の本やノート、日記が置いてあった。このころの「若き日の日記」にも、不安定な体調との闘いが赤裸々に綴られている。

 「身体の具合、悪し。背中に、焼けたる鉄板を1枚入れたるが如し。且つ、焼けたる木を、一枝、胸中に入れたる感じなり。身体さえ、頑強に、健康になれば、何も恐れることなし。そは、信心以外に、解決の途(みち)はなし」(1953年2月4日)

 「一日中、身体の具合悪し。苦しい1日であった。健康を欲するのみ」(同4月7日)。

 「心身共に、不調。人生の終幕の如き、悲しき思い有り。人生の旅路、25星霜。倒れてたまるか。先生のお体の具合、次第に悪化の様子。先生、頑張って下さい。私も、断固、頑張ります」(同11月4日)。

 第一部隊を支えるメンバーは、平日は夜まで仕事や学会活動で忙しい。部隊長になった池田は日曜午前も午後も、男子部員たちを結婚2年目の自宅へ招き、御書の勉強会や個人指導に費やした。


 中村慶和は墨田区の小学校を卒業した後、小さな町工場で働いた。浅草の遊園地などに納入するメダルをつくった。

「東京スカイツリーが建った近くです。屋根は厚紙にコールタールを塗っただけの安手のものでした」。事業不振と借金で苦しみ、1952年(昭和27年)に信心を始めた。その工場に池田が自転車に乗って訪れたことがある。

「穴がたくさん開いた天井をしげしげと見上げて、『君の工場は、プラネタリウムみたいだねえ』とおっしゃってねえ。その言葉が誠実で、生き生きしていて、思わず吸い込まれそうになった。この人のいる学会にはついていけると思った」(中村)。

 

 鈴木武(千葉・柏大勝県主事)は小学校を卒業後、志願して海軍航空隊に入った。予科練習生として横須賀へ赴いた。

「父は台東区蔵前で紙の加工業を営んでいましたが、東京大空襲で自宅が焼け、きょうだい三人と母が死にました」。貧しさに喘ぐ52年10月、先に入会した父の勧めで信心を始めた。

「数ヵ月後、先生と初めて会った時、力強く励ましていただいた。人生が音を立てて変わった感じがした」と振り返る。

 第一部隊の出身者には「秀山荘を訪れるのが何より楽しみでした」(並木辰夫、江東総区主事)という人が多い。

「手回し式の蓄音機でクラッシック音楽を聴かせてもらったことも忘れられません。今『若き日の日記』を読むと、体調が優れないなか、本当に励ましていただいたことがわかる。ずいぶん先生の休息の時間を奪ってしまったと恐縮しています」(中村)。

      「金曜講義」の陰で


 1953年は、「創価学会の発展の歴史にあって、もっとも折伏意欲の漲った年であった」(『人間革命』第7巻)。当時、学会の世帯数は約2万。それを1年間で、7万世帯にまで伸ばそうというのである。それでも戸田が「達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな」と宣言した75万世帯は、はるかに遠い。世帯数が増え、「指導力の稀薄化(きはくか)が、さまざまな面で露呈しはじめた」(同)時期でもあった。一歩間違えれば、学会全体が失速しかねない。

 その陰で池田は、病弱な体に悩みながら、戸田の体調を心配していた。当時の日記。

「金曜講義あり。出席。毎週盛況の模様、嬉し。先生の確信、先生の名講義を聴講す。実に嬉し。身体の調子、次第に悪化。実に残念なり」(1953年6月12日)。

「金曜講義。先生、喉を痛められている様子。祈る、祈る。広布の日まで、御健在を」(同10月2日)。

「豊島公会堂、盛況。而(しか)し、先生の病気知れる小生(しょうせい)は、お苦しそうな講義に、ひとり胸苦し」(1954年2月12日)。

 そして豊島公会堂での「金曜講義」スタートに前後して、25歳の池田は男子部の第一部隊長(53年1月)と、文京支部長代理(同4月)を兼任することになる。


 「金曜講義の終わった後、豊島公会堂近くのそば屋の2階に集まったことがありました」。第一部隊に所属していた山田秀弥(江戸川区、副本部長)。

「池田先生はそれぞれの班の状況を聞かれ、ぱっぱっと簡潔に指示を出される。動きに無駄がないんですよ」。お互いにそばをすすりながの短い打ち合わせである。池田は「これから文京支部の会合に行ってくるよ」と急ぎ足で店を出た。

 300人強だった第一部隊は、池田が部隊長を努めた1年3ヶ月で1200人を超え、4倍近くまで広がった。また支部長代理として足繁く通った文京支部の伸展ぶりは、戸田をして「文京にマムシでも飲ませたのか」と言わしめるほどだった。

 すでに前年の2月、池田は蒲田支部幹部幹事として指揮を執り、「1ヶ月で201世帯」という、それまでどの支部もやったことのない弘教を成し遂げている。

「あの時、池田先生の日程表を拝見したことがあります。仕事の合間を縫うようにして、びっしり予定が組み込まれていました」(小泉綏、目黒総区婦人部主事)。この「二月闘争」と呼ばれる弘教の中で入会した永島文子の息子は、アメリカSGI(創価学会インターナショナル)現理事長のダニエル・ナガシマである。日蓮の仏法が国境を越えて広がる「種」は、着々と植えられつつあった。

 今回、第一部隊や文京支部などで池田と行動をともにした人々に取材を重ね、各地に残る記録も紐解いた。浮かび上がったのは、文字通り「老若男女」を励まし続ける強靭な青年像である。

 一方、『池田大作全集』(第36・37巻)に収録されている「若き日の日記」には、師のもとで己(おのれ)を見つめ続ける若者像が記録されている。

 弓と矢に譬えれば、池田が放つ「言葉の矢」「励ましの矢」は、厳しく自身を省みる「鍛錬(たんれん)の弓」「研鑽の弓」を極限まで引き絞ることによって、力を増していった。


 「・・・・・青年よ!


 今日も民衆の真っ只中で


 友好の対話を頼む


 わが青年よ!


 激務をさいて


 嘆きの友の声を


 よく聞いてあげてくれ」


           (「青年の譜」)


 この一節はそのまま、二十代の池田が自らに課したテーマだった。決して派手ではない。目立たず、地味な対話の連続。そして「自己との対話」の連続。その日々を追う。



     第一部隊長の日々


 「わが青年よ!


 激務をさいて/嘆きの友の声を


 よく聞いてあげてくれ」(青年の譜)


 誰でも参加できる戸田城聖の「金曜講義」が


 東京・豊島公会堂で始まった昭和28年、


 池田は男子部第一部隊長の任命を受けた。


 300人強だった部員数は一年三ヶ月で


 1200人を超える陣容に発展する。

 

 恩師の健康を気遣い、自身の体調に悩みつつ


 「嘆きの友」を励ます日々が続いた。


「達成できなければ私の葬式は出すな」


 それは金曜の夕方だった。

「昭和30年ごろです。国鉄の池袋駅を降りると、いつも長い列ができていました」。中学生だった杉本喜久雄(東京・江戸川太陽区・区副本部長)は豊島公会堂を目指して歩いた。1951年(昭和26年)5月、戸田城聖は創価学会の第二代会長に就任。誰でも参加できる一般講義を始めた。53年(同28年)からは豊島公会堂で開催され、「金曜講義」の愛称で親しまれた。

「御書(日蓮の遺文集)の講義などの合間に、戸田先生は『皆の福運はどれくらいだ?』と呼びかけ、『私の福運はこの公会堂いっぱいです。皆は親指でちょっとすくったくたいだ。10年間しっかり信心すれば必ず変わるぞ』とユーモアたっぷりに話される。子ども心にワクワクしました。満員で中に入れない時は裏木戸へ回り、拡声器の声を聞きました」

 その日も多くの人が場外で戸田の講義に耳を澄ましていた。

「寒いのに申しわけないね」。後ろから若い男性の声が近づいてくる。周囲に「池田室長だ」とささやく声が広がった。振り返った杉本は、その時目にした池田大作の笑顔を今も覚えている。

「『遅く来て申しわけないけど、どうしても中に入らなきゃならないので、入れてもらうよ皆さんのことは全部、戸田先生に報告しておきます』と、私たちにも挨拶されて、颯爽と裏木戸から入っていかれた。ほんの一瞬でしたが、学会にはこんなに丁寧で立派な人がいるのかと、びっくりしました」。


 宮腰弘(東京・新宿区、副支部長)も少年時代、母に連れられて金曜講義に行った。講義の中身は難しくてよくわからなかったが「とても大事なものをつかむことができた」と語る。

「戸田先生のしわがれた力強い声を一言一句も聞き漏らすまいと、真っ黒な手でメモをとる工員風の男性や、赤ん坊をねんねこ半纏で背負って参加し、仏法を求める女性の姿です。皆、真剣でした。嬉々として帰っていく姿を見て、なんとも言葉では言い表せない感動を覚えました」。同講義は、場内だけでは入りきれず、「豊島公会堂の外にスピーカーを持ち出し、公会堂前の中池袋でも講義を聴く人で一杯になった」(『豊島区制60周年記念 豊島公会堂の40年』)という。