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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「勉強せぬ者はわが弟子ではない」


 弘教とともに最も力を入れたのは教学だった。第一部隊長就任の三ヶ月後、第一回男子青年部総会で池田は「青年と教学」をテーマに登壇している。「勉強せぬ者はわが弟子ではない」という戸田の指導を紹介し、「教学なき戦いは感情であり、無意味である」と訴えた。

 「ともかく教学の研鑽には厳しいものがあった」(佐久間昇)。

「第一部隊で最初に学んだ御書は、たしか『観心本尊抄』でした」(並木辰夫)。「撰時抄」「当体義抄」「如説修行抄」「顕仏未来記」「妙密上人御消息」・・・・・これらは第一部隊で研鑽を進めた御書の一部である。

 戦後の創価学会の再建は、戸田城聖の痛切な反省に基づいていた。戦争中の弾圧で、牢獄につながれた最高幹部の大半が退転し、組織は壊滅した。なぜなのか──池田は戸田との対話を回想しながら、こう綴っている。

 「戸田先生は、戦争中の大法難を顧みて、教学の深化の必要を、しみじみと感じておられた。

 ──それは、信心の過程において、『このような難、このような現象は、こう捉えていくべきである』『このような場合には、こうしていくべきである』等と、御書には明確に記されている。このことを、弟子たちに深く教える暇がなかった、と。教学なきところに、戦前の学会は敗北した」(「聖教新聞」2001年10月19日付)


 どうすれば教学に取り組みやすくなるか。張り合いを持てるか。皆で知恵を絞った。第一部隊で独自に弁論大会を企画し、「現代思想と宗教」「原水爆禁止を論ず」「生活と宗教」などをテーマに議論を重ねた。

 また「教学一般用語120題」という教材もつくった。その範囲は「三障死魔」「法華経不軽品の意義」「無作三身」「草木成仏」などの基本知識に加え、仏法史上の人物(「阿闍世王(おじゃせおう)」「天台」「鳩摩羅什(くまらじゅう)」)、歴史(「熱原の法難」「身延離山の原因」)、さらに「心理と価値の区別」「意識と認識」「弁証法」などの哲学・思想一般にも及んだ。

 「書く」機会も増やした。下町の第一部隊は町工場の働き手が多かった。

「みんな書くことは大の苦手だった。(笑い)。そんな私達に、先生はよく会合や登山会の感想文を書く訓練もしてくださった。今考えると冷や汗ものだが、その感想文を集めて『大白蓮華』誌上に掲載するような配慮までしてくださった」(曽根原敏夫)。

 「まずやらせることが訓練の基本だった。数字に弱い人には会計をやらせてみる、というように、なぜ苦手なことをと思う人もいたが、そうして力をつけてくださった」(鈴木政行)

 「『夜討ち朝駆け』でご迷惑をかけたと思います。私は総会の前日の夜遅く、研究発表の原稿を持ち込んだことがあります」(曽根原)

 「よく来たな」。池田は心快く秀山荘に迎え入れた、この年の末に行われた男子部総会で、第一部隊の結果は1000人を超えた。



  「後輩を自分より偉くしなければ」


 「生命は永遠であり、一生は儚し 浅きを去って深きにつくは丈夫の心なり」

「湿れる木より火をいだす。御聖訓を色読(=身をもって読む)しきって戴き度(た)い」

「金曜講義に出席させる様に」・・・・・甚野たち第一部隊長のメンバーが残した資料には、池田から届いた数多くのハガキ、色紙などがある。

「先生はよほど心配されたのか、夫は1年少しの間に、ハガキを20数通もいただいたようです」(甚野年子)。

 「電話なんか、ほとんどの家にない時代です。池田先生は電車の中、活動の行き帰りなど、暇を見つけては部員にハガキを書いておられた」(並木辰夫)

 戸田は男子部の各部隊に「1000人」という目標を示した。第一部隊はまだ300人余。6班の体制を、池田は10班に組み直した。

 「10人の班長が『部隊十傑(じゅっけつ)』そして各班に10人の分隊長をつくろうと訴えられた。『部隊百傑』です。それぞれの分隊が10人の部員達成を目指す。つまり10×10×10で1000です、誰でもわかる明快な道しるべになりました」(並木)


 3月──部隊長就任から2ヶ月。

「6時、常在寺にて、青年部会。第一部隊、断然、第一位となる。他の三部隊、驚嘆の様子なり、先日は、班長全員に歌を託す」(3月3日)

 「台風の目」の中心にいると、台風そのものの強さに気づかないものである。ある日、男子部全体の会合が終わった後、池田が第一部隊の幹部を集め、ごく短時間で今後の方針を確かめた。今は学会の会合でよくみられる光景だが、当時はそうした発想そのものがなかったようだ。

「他の三つの部隊が、がぜん色めきたった」様子を、佐久間昇が書き残している。

 佐久間は多くの青年部員から「第一部隊は次は何をやるのか」と聞かれた。「まったく『灯台もと暗し』で、他から池田部隊長のすごさを教わったようなものであった」。

 なにより佐久間が驚嘆したのは、池田が参加した小岩での座談会である。100人中20人ほどが新来者だった。その日、池田は法華経の本を一冊手にしていたという。

「人生論を悠然と話され、最後は全員が入会を決意した。まさに一編のドラマのようなひとときだった」。

 「私たちのように理詰めで追い込んだりしない・・・・・話を聞いていると私たちのほうが楽しくなった。みんな膝を乗り出すように聞いていて、ピシッと決まってしまう」(鈴木政行)

 また池田は、弘教が決まった人を宣揚した。その姿は「こんなに全魂込めて、心から1人1人を励ます人がいるのか」(坂本司、当時第一部隊員)と周囲が驚くほどだった。

 6月──部隊長就任から5ヶ月。

「出席人員、約6百名。皆、元気。希望と、決意と、躍動と。──

 嬉しい。この中より、未来、幾人の高杉晋作が、久坂玄瑞が出現することか。汚れた服──よれよれのシャツ──ばさばさしている髪──而(しか)し、未来を指して生きゆく、青年の尊き瞳・・・・・この百人を、千人に、万人にしてゆくことを、胸深く決意する。後輩を大事にしよう。後輩を、吾れより偉くせねばならぬ。これが、先輩の、幹部の使命と自覚する」(6月17日)

 後輩を自分より偉くする、という学会の「指導のモデル」が生まれつつあった。


    パン代にも困る日々


 第一部隊の最初の会合は、1953年(昭和28年)の1月22日、江戸川区の小岩で行われた。信心を始めて1年少しの甚野緑は、しぶしぶ参加した。「最初に顔だけ出して、すぐ帰ろう」と思っていた。

 「でも夫は会合の雰囲気に魅了されたようですよ」。81歳の甚野年子(墨田区婦人部主事)。生前に夫が書き残した手記を机に広げた。

 29年(同4年)生まれの甚野緑は、男6人、女2人のきょうだいだった。3人の兄と弟1人は幼くして亡くなった。

「すぐ上の兄も第二次世界大戦で、中国で戦死した。しかも空襲で2回も家を焼かれ・・・・・父も持病の神経痛と胃病のため、家の中は苦悩の連続であった」。

 一家で新宗教にのめり込んだ。

「やればやるほど家の中は地獄のようであった」。学会の話を聞いても「どの宗教も同じ事を云い、結論は布施を上げろと云うに決まっている」と決め込み、猛烈に反対した。

 まず妹が始めた。

「生まれ変わったような妹の姿に私は何かを感じ、『前の宗教とは違う』と思った」。51年(同26年)の秋にいちおう入会した。

 「小理屈を並べて信仰をさぼっていた」というある日、「すごい人が男子部の第一部隊長になった」と聞かされた。小岩で会合があるらしい、わざわざ墨田から小岩まで行く気が起きなかった。甚野は「本当は電車賃が惜しかった」という。毎日の食費すら足りなかった。

 「会合でも折伏でもよく歩いた。二時間、三時間は平気で歩いた」(佐久間昇、当時の第一部隊班長)という時代である。同じく班長だった並木辰夫は「中古の自転車を買えた時は涙が出るほどうれしかった。今の自動車以上の重みがあった」と語る。

 当日夜、男子部の先輩が甚野の家まで迎えに来てくれた。

「熱心さに負けて不承不承、『つきあいだ』くらいの軽い気持ちで出席したのである」。


 「会合に出席してびっくりしてしまった」と甚野の手記は続く。

「集まった青年たちの服装も貧しく、髪の毛もボサボサであったが・・・・・熱気は会場に溢れていた」。宗教とは、老人がするものではなかったのか。

 会合の最後に池田は大要、次のように語った。

 「きょう集まった諸君のなかには、帰りの電車賃にも、またパン代にも困っている人がいるかもしれない。病気で悩んでいる人もいるかもしれない。これらは科学が発達しても絶対に解決できない。そのような問題を根本より解決してゆくのが御本尊であり、その闘いこそ創価学会の宗教革命である」

 陣野は初めて出会った池田の一言一言が「私の胸の中につきささった」と書き残している。

 「今は誰も信じないだろうが、必ず世の中の人々が、創価学会の正しい哲学と、御本尊様の力を信じる時が来る。その時まで、私に一切を任せてついて来てください。広宣流布は必ずできる。しかも、きょう集まった君たちの手でするのだ」

 「我々の闘いが正しいか否かは歴史が証明してくれるであろう」

 25歳の池田の全魂を込めた話を聞きながら、「知らず知らずに涙していた」という甚野。聞けばあの部隊長は自分と1歳しか違わない。それまで持っていた宗教への偏見も、戦争で荒んだ人生観も、一変させるほどの衝撃だった。

 「この日の指導を、夫はほとんどそらんじていました。先生との出会いが、小学校しか出ていない、小さな町の玩具工場で夜なべ仕事を続けていた夫の人生を変えたのだと思います」(甚野年子)。この5日後、甚野は第一部隊班長の任命を受ける。


 「おお

 

 日蓮が法門は 青年の哲学

  

 反動と憎嫉(ぞうしつ)の要塞に向かって

 

 白馬にまたがり

 

 毅然と陣列行進するであろう」


      (「青年の譜」)


 敗戦から8年。誰も見たことのない青年の群像が立ち現れようとしていた。


   「1日20分、読書と思索の時間を」②


 高校生だった諸富文紀(第二総東京参事)。

「先生の部屋には本棚の上まで本が積んであった。蔵書は文学や哲学に限りませんでした。なかでも『憲法撮要』が印象的でした」と振り返る。

「大学に行ってから、同書が大正デモクラシーを代表する憲法書で、軍国主義者に睨まれ、昭和10年発禁処分を受けた歴史を知りました」。


 新潟で池田と会った江口金吾は、「本は読んでいるかい」と尋ねられ、大声で「いいえ」と答えた。「そんなに自信をもって言わなくてもいいよ」と池田。座に笑いが広がった。そして「戸田先生は『青年よ1日20分の読書と思索の時間をもて』とおっしゃっている。どんなに忙しくてもそれを実践し抜いた時、大きな力がつくよ」と続けた。


 日曜が来ると、第一部隊の班長たちのために、長男の博正をおぶった香峰子がコロッケや天丼、お汁粉を用意した。

「おにぎりを握ったよ」「戸田先生からカレーの作り方を教わったんだ」と池田が自ら腕を振るうこともあった。手ぬぐい片手に連れ立って銭湯にも行った。そうしたある日の所感を、池田は次のように綴っている。

 「夜、部隊員、2、3、人が、指導を受けに来る。可愛い。実に可愛い。

   退転なきことを切望する。皆、偉い。皆、勇ましく、苦難と戦い、人々を救っている。苦しき生活とも戦っている。尊いことだ。一人一人を、心から大事にせねばならぬ」(1953年10月12日)

   「1日20分、読書と思索の時間を」 ①


 「本を読まねばならぬ、若いうちに。老いて、後悔せざる為にも」(1955年10月25日の日記)。

「読書の秋、否、365日、読書の日にしたいものだ」(3日後の10月28日)──青春時代、池田にとって読書はこよなき楽しみだった。

 戸田も「一流の本を読め」と厳しく鍛えた。

「幾度も、歴史の本を読むよう、常に(戸田)先生はいわれる。大事は、史観なりと」(53年10月7日)。

「『モンテ・クリスト伯』読了。読書は、智慧も、知識も、指導力も、そして御書の読み方にも、力を与えてくれる」(1954年2月18日)。

 「読書。『ブルターク英雄伝』遅く休む。──明日も、又、読もう」(同6月12日)。

「夜、3時頃まで読書。妻に早く休むよう注意受く」(翌13日)。

 第一部隊のメンバーにも「ここにあるものは何でも、好きなものから読んでいい」と言って自宅の本を持って行かせた。

 江戸川で活躍した鈴木政行は当時、第一部隊の班長だった。

「書名を見ると、私には読みたいような本がない(笑い)。やっと『三国志』『水滸伝』を選んで持ち帰ったものです。とにかく青年は本を読め、頭の良し悪しではなく、青年は本をむさぼるように読んでいかなくてはならない、といつも言われていた」と語り残している。


 ある日の秀山荘、鈴木の服のボタンがとれていたことがある。池田は「ボタンがあるべきところにはボタンをつけなさい」とたしなめた。「私も靴下を自分で縫ったんだ。たとえ古くても、破れたところはきちんと縫う。それが『着こなす』ということにつながるんだよ」。

 独身時代の池田の日記には「皆、破れてしまい、靴下1足もなくなる。困った。自分で、明日の間に合わせに、1足繕う」(22歳)、「洋服が破れ、うまく縫えぬので困る」(23歳)等の記述がある。

 池田は、電球に靴下を履かせれば、しわがきれいに伸びて縫いやすいんだよ、と鈴木に手真似で教えた。