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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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     シベリアの凍土から②


 帰国後に勤めた会社で星生務(草創期の向島支部長)や曽根原敏夫と知り合い、51年(同26年)4月、学会に入った。初めて参加した会合が、戸田の第二代会長就任式だった。

「75万世帯の宣言を聞き、これはすごいと思いました。池田先生と出会ったのはその数ヶ月後です」。

 「おいくつですか」と声をかけられ、赤須は「27歳です」と答えた。

「『不肖、池田は23歳です』と両肩をがっちりつかんで、『今日から友だちになりましょう』と目を合わせました。精悍な顔、凛々しい声。何よりその真剣さに心を打たれた。男が男に惚れる、とはあのことでした」。池田の気迫はシベリアで地獄を見てきた赤須の心をつかんだ。


 第一部隊の最初の班長会は、墨田区寺島町(当時)の赤須宅で開かれた。

「その時に先生から教わった御書が『わが家の魂』になった」と語る。

 「妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法((そほう)=不完全な教え)なり」(一生成仏抄)


 ──たとえ信心しているとしても、もし、”自分の心以外のどこかに妙法がある”と思うならば、それはまったく妙法ではない──。つまり、ほかでもない自分自身の生命にこそ、仏の生命力が具わっていると説く。日蓮の思想の要である。

 池田は「自分の失敗を人の責任、環境のせいにしていたら成仏できない。成仏とは人間革命ということです。この『一生成仏抄』を、わが身をもって読みきれば、全部の御書に通ずる。わかっていく」と訴えた。

 「壮年部になってからも、何度も何度も厳しく指導していただきました。師匠とはなによりもありがたい存在です。ひとたび縁した人は一生涯、面倒をみる。これが池田先生の思いではないでしょうか」(赤須)

    シベリアの凍土から①


 「あの時期に一生の基盤をつくっていただいた」と語るのは88歳の赤須雪秀(第二総東京参事)。1924年(大正13年)、寺島町(現在の墨田区)で生まれた。父は市電の運転手だった。

「胃がんで亡くなった時、42歳でした。36歳の母と7人の子供が残りました」。雪秀は小学校の校長に頼み込んで、卒業後に小学校の給仕として4年間働いた。

 

太平洋戦争では44年秋、陸軍に入営し中国北部に派遣された。しかし敗戦の色濃く、帰還命令を受けて帰国する途中、朝鮮戦争の興南で敗戦を迎えたという。

 「終戦を告げる玉音放送は、ガーガーと雑音で聞こえなかった。三八銃に掘り込まれていた菊の御紋を『敵に渡してはならん』と、泣きながら削りました。間もなく機関銃を構えたソ連軍がやってきて、シベリアに抑留されました」

 三重の鉄条網に囲まれたラーゲリ(=収容所)は、外気が零下40度にもなる。赤須が持っていたそろばんをソ連兵は珍しがった。小学校の給仕時代に身につけた経理の知識を活かし、食料の計算係などをやった。


 炭鉱の労役についた時、落盤事故で首に重症を負った。

「事故で死んだ戦友を、せめて埋めてやりたくてね。丘の地面にスコップを突き刺したが、固い凍土で、なかなか掘れなくて・・・・・・」。やっとの思いでつくった穴に亡骸をを寝かせて、土をかぶせた。空を見上げると、亡骸を狙う無数の鳥たちが悠々と舞っていた。その光景が何度も夢に出てきた。

 悪化する首の傷と栄養失調に苦しんだ。まともな薬も医療設備もない。運よく病院船に乗ることができ、1947年(昭和22年)2月日本の土を踏んだ。

昼は太陽に向かって夜なら月に向かって ②


 85歳になる内山和男(葛飾区、副本部長)。敗戦後、葛飾にあった国鉄の請負工場で枕木や釘を作った。吃音に悩んでいた。朝鮮戦争の特需で生活は潤ったが、妻の喜久江(婦人部副本部長)が急性の膵臓炎に。死線をさまよっていた時、学会の話を聞いた。

「最初は妻の入院している部屋に御本尊を安置しました」という内山。信心を始めて1ヵ月後、第一部隊の総会に参加した(1954年3月14日)。

「民衆の味方は創価学会である」という池田の肉声に触れて、「胸をえぐられるような感動を覚えた。こういう世界があったのか、と身震いが止まらず、涙で顔がくしゃくしゃになった」と語る。

 「大卒の初任給が7000円くらい。妻の治療に使うペニシリンも1本7000円でした」。妻は退院できたが、何度かぶり返した。自身の吃音も一進一退を繰り返していた。

 「ある日、学会本部で行われた会合で、先生が私たちの車座に入られました」

 池田は内山に断言したした。「信心とは祈ることだ。『無量義とは一法より生ず』だよ。一法は南無妙法蓮華経です。この題目で、仏の無量の智慧を引き出せる。御本尊を根本にすれば、必ず境涯が開けます」。

 「あの言葉を生命に刻んだ」と内山は語る。入会の翌年には500人強の男子部の隊長として、4年後には1400世帯の壮年部地区幹事として、全国を駆け回った。

「信心する前は、人前であいさつも満足にできなかった私です。吃音も、妻の病気も治っていました」。



 昼は太陽に向かって夜なら月に向かって ①


 第一部隊長時代の対話からは、日蓮の仏法に「現代」の血が通い、庶民の生活に根づいていく過程が垣間見える。

 「人間は1個の生命であり、宇宙もまた1個の生命である」──池田が「祈り」について語った例え話を、甚野が残していた。

 ──たとえば私たちの身体の細胞が一つ、怪我をしたとする。細胞は昼も夜も、脳に「痛い、早くなんとかしてくれ」と訴える。そこで脳は「それほど痛いのか、苦しいのか。よし、その願いを聞いてやろう」ということで、薬をつけるなり、医者に見せるなりして全快する。細胞にとっては切なる願いが叶ったことになる。

 信心も同じだ。私たちの祈りが宇宙に満ちて、相手に通じる。真剣な祈りは、ラジオの電波のように、この宇宙のどこまでも届き、願いが叶う──。

 誰でもわかるような比喩を交えて、仏法の原理に迫った。

 

菊田四郎(千葉・習志野市、副本部長)はこ江東区に住み、タクシー運転手をしていた。

「あの日は四ツ谷駅の近くでお客さんを乗せて、日本橋方面に行きました。靖国通りの九段坂あたりで、気づいたんですよ」。

 バックミラー越しに菊田は「池田部隊長ではありませんか」と声をかけた。「はい。ぼくのことを知っているんですか?」「第一部隊の菊田と申します」。

 「儲かりますか」と池田。「少しも儲かりません」と答えた。

「車中でいろいろな話を聞いていただきました。不規則な勤務形態で、夜起きて麻に寝ることもあった。なかなか御本尊に向かう時間がとれずにいました」。

 池田は「昼間は太陽に向かって題目を唱え、夜だったら月に向かって題目を唱えればいいんだよ」と励ました。

「そうなのか、と心が軽くなった。あの一言で信心に目覚めました」と菊田は振り返る。