昼は太陽に向かって夜なら月に向かって ②
85歳になる内山和男(葛飾区、副本部長)。敗戦後、葛飾にあった国鉄の請負工場で枕木や釘を作った。吃音に悩んでいた。朝鮮戦争の特需で生活は潤ったが、妻の喜久江(婦人部副本部長)が急性の膵臓炎に。死線をさまよっていた時、学会の話を聞いた。
「最初は妻の入院している部屋に御本尊を安置しました」という内山。信心を始めて1ヵ月後、第一部隊の総会に参加した(1954年3月14日)。
「民衆の味方は創価学会である」という池田の肉声に触れて、「胸をえぐられるような感動を覚えた。こういう世界があったのか、と身震いが止まらず、涙で顔がくしゃくしゃになった」と語る。
「大卒の初任給が7000円くらい。妻の治療に使うペニシリンも1本7000円でした」。妻は退院できたが、何度かぶり返した。自身の吃音も一進一退を繰り返していた。
「ある日、学会本部で行われた会合で、先生が私たちの車座に入られました」
池田は内山に断言したした。「信心とは祈ることだ。『無量義とは一法より生ず』だよ。一法は南無妙法蓮華経です。この題目で、仏の無量の智慧を引き出せる。御本尊を根本にすれば、必ず境涯が開けます」。
「あの言葉を生命に刻んだ」と内山は語る。入会の翌年には500人強の男子部の隊長として、4年後には1400世帯の壮年部地区幹事として、全国を駆け回った。
「信心する前は、人前であいさつも満足にできなかった私です。吃音も、妻の病気も治っていました」。