EIKOの気まぐれ闘病日記 -141ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

    「僕の懐刀を出そう」


 田中都伎子はまだ、池田の存在をほとんど知らなかった。戸田は「僕の懐刀を出そう」と言い、「大は若いが、恐ろしいほどそごい男だぞ。僕の胸のここらにいる男だからな」と自分の心臓のあたりをたたいた。6歳だった長男の芳雄(練馬区、副支部長)。

「その日、母に手を引かれて戸田先生のもとに行きました。話の内容はわかりませんが、帰り道、母の顔色が見違えるように明るかったことを覚えています」と語る。


 このころの池田の日記(『池田大作全集』第36巻)には、戸田からの厳しい指導、自身の闘病、未来への展望などに交えて、「リーダー像の模索」が綴られている。

 「青年を大事にする先輩は少ない。否、いない。自分のことで、精一杯なのか。先生なきあと、各先輩が、次期の人材を育てることを忘却したら、広布の総仕上げは出来ぬことを反省して貰いたい。信心にかこつけて、尊敬されゆく役職を、私は心配する」(52年12月22日)

 「・・・・・・教学の度に思うことは、勉強不足である。勉強の必要を、深く深く感ずる・・・・・学会の幹部は、未来の人、そして、孤独の人、誠実なる人を、心から激励し、擁護してあげねばならぬ」(53年3月9日)


 文京支部で池田は「未来の人」「孤独の人」「誠実なる人」を見出し、励まし始める。そして第三代会長に就任するまでの7年間、陰になり日向になり、支え続けた。同支部の勢いは「正直言って、まったく息つく暇もなかった。地上一尺(=30センチ)のところを無我夢中で駆け出した感じ」(田中都伎子)だったという。その間、世帯数はじつに7万を超え、やがて文京、横須賀、新宿の三支部に発展。当初の文京、豊島、武蔵野(以上、東京)、保土ヶ谷、橋本、(以上、神奈川)の5地区から、全国に多くの地区が誕生していく。


 国境を超えて広がったSGI(創価学会インターナショナル)の「組織の原理」を、池田は文京支部時代につくりあげたとも言える。その日々の証言は、二十代後半から三十代前半の池田が、一人一人にに何を語ってきたのかの記録でもある。


「僕の懐刀をだそう」──昭和28年4月、低迷していた文京支部を立て直すため


会長・戸田城聖は25歳の池田を送り込む。


”団結する” ”青年を大切にする” ”陰で苦労している人をたたえる”──


活動の最前線で意識改革を促す池田。


7年後の会長就任まで、文京支部時代の池田の足跡には、その後の学会発展の方程式が凝縮していた。


 田中正一は「威張る人間」が大嫌いだった。東京・文京区の雑司ヶ谷(現・目白台)に住み、高田老松町(同)で米屋を経営していた都伎子の強い勧めで創価学会の信心を始め、何人かに弘教も決めていたが、会合には出たがらなかった。それまで出会った学会の幹部のなかに、威張る人間がいたからである。

 この田中の家が、文京支部の数少ない拠点の一つだった。1952年(昭和27年)の12月から都伎子が支部長として奮闘したが、低迷していた。悩み抜いた都伎子は翌年4月、会長の戸田城聖に相談した。戸田は池田大作を文京支部の支部長代理に抜擢する。男子部の第一部隊長と兼任だった。この年、明治時代から続いた旧制大学が最後の卒業式を行い、東京地区でテレビの本放送が始まっている。



 先日は誕生日のブログに沢山のコメントをいただきました。


 ありがとうございました<m(__)m>


いつも連載を楽しみに読んでくださる皆様、本当にありがとうございます<m(__)m>


 本日で、「民衆こそ王者ー池田大作とその時代 青年の譜(2)第一部


隊長の日々」が連載が終了しました。


 次回からは、「青年の譜(3)文京支部代理として」を不定期で連載しま


すので、どうぞ宜しくお願いします<m(__)m>

「学会青年部は誰より私が一番愛している」②


 「池田先生はともかく青年を大事にされた」、その反対に「支部の成果が悪いと、壮年の幹部は青年ばかりを追及した(笑い)」と甚野緑が語り残している。

 

ある座談会。池田は、ぶだん青年につらくあたっている壮年幹部たちに対し、いくつかの社会問題について質問した。誰も答えられなかった。池田は、「今、青年部は将来の飛躍のために、広宣流布の人材となるために、そういうことも勉強しているのです。どうか青年を大事にしてください」と頭を下げた。

 その場にいた甚野。「実は私もその答えはわからなかったのですが(笑い)、そのように守ってくださった。だから皆、安心してついていった」。

 

1954年(昭和29年)4月11日が、第一部隊長として最後の最後の会合だった。

「皆、別れるのが、淋しそう。良く戦ってくれた。感謝する。良くついて来てくれた。有難う。良く耐えて来てくれた。天晴れだ。君達を、生涯、断固、護ることだろう。帰宅、11時を過ぎる。途中、新橋にて、今までの代表幹部、二、三名を誘い、やき鳥を御馳走する。『永遠の都』の本を贈る」(1954年4月11日)

 

1週間後の日記には、池田の率直な悩みが綴られている。

 「死ぬほどつらい、疲れている。・・・・・・人材が欲しい。人材を育てよ。人材を見つけ出せ。安部次郎の『三太郎の日記』を読む」(同4月18日)

 「自分を知ってくれる友は、少ない。自分を信じてくれる同志は、少ない。吾れを真実育ててくれる人は、少ない、吾を本当に譲ってくれる人も、少ない。

 いや、その甘い考えがいけないのだ。一切法といえども、一念にある。人を批判する前に、自己を、自分を、吾れをと、反省し、自らの信心の凝視を忘るるな」(同4月19日)

 この時──池田は数々の役職をを兼ねながら、かつて「あるのかないのかわからない」と言われるほど低迷していた一つの支部を立て直すために奔走していた。

 東京の文京支部である。


「学会青年部は誰より私が一番愛している①


 事を成そうとする時、乗り越えるべき壁は外側にも、内側にも生まれる。「若き日の日記」には時折、「青年を軽んじる幹部」への怒りが叩きつけるように綴られている。

 

「学会青年部は、誰よりも私が一番愛している。此(こ)の人達を、なんとか、日本はおろか、世界の檜舞台で活躍させてあげねばならぬ。決して、先輩達が、広布の総仕上げを遂行するのではない」(1954年6月9日)


 「青年部会、午後7時。出席・・・・・元気なし。私は憤激す。青年は可愛い。その青年をいじめる権威主義の、最高幹部達に。学会の前進を知れといいたい。先生の恩を忘れたかと怒る。恐ろし、恐ろし。われ淋し」(1956年7月17日)

 

また、第一部隊長を終えるころから、日記には学会全体の未来を展望する記述が増えていく。

 「生きる。社会に働く。そして、やがては死んでゆく。万人悉く、異なる人生である。不思議でならぬ。真の平等とは、何を指すか。生命の因果の理法が、明確にわかってくる。・・・・・活気ある本部。而(しか)し、職員の訓練、指導を立派にし、更に、適材適所に人を配置してゆかねば、将来、行き詰ることを憂う。先生の下という、誇りのみで、官僚化し、己惚れてゆく事を心配する」(1954年4月6日)