民衆こそ王者ー池田大作とその時代  青年の譜(3) 文京支部代理として 2 | EIKOの気まぐれ闘病日記

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

    「僕の懐刀を出そう」


 田中都伎子はまだ、池田の存在をほとんど知らなかった。戸田は「僕の懐刀を出そう」と言い、「大は若いが、恐ろしいほどそごい男だぞ。僕の胸のここらにいる男だからな」と自分の心臓のあたりをたたいた。6歳だった長男の芳雄(練馬区、副支部長)。

「その日、母に手を引かれて戸田先生のもとに行きました。話の内容はわかりませんが、帰り道、母の顔色が見違えるように明るかったことを覚えています」と語る。


 このころの池田の日記(『池田大作全集』第36巻)には、戸田からの厳しい指導、自身の闘病、未来への展望などに交えて、「リーダー像の模索」が綴られている。

 「青年を大事にする先輩は少ない。否、いない。自分のことで、精一杯なのか。先生なきあと、各先輩が、次期の人材を育てることを忘却したら、広布の総仕上げは出来ぬことを反省して貰いたい。信心にかこつけて、尊敬されゆく役職を、私は心配する」(52年12月22日)

 「・・・・・・教学の度に思うことは、勉強不足である。勉強の必要を、深く深く感ずる・・・・・学会の幹部は、未来の人、そして、孤独の人、誠実なる人を、心から激励し、擁護してあげねばならぬ」(53年3月9日)


 文京支部で池田は「未来の人」「孤独の人」「誠実なる人」を見出し、励まし始める。そして第三代会長に就任するまでの7年間、陰になり日向になり、支え続けた。同支部の勢いは「正直言って、まったく息つく暇もなかった。地上一尺(=30センチ)のところを無我夢中で駆け出した感じ」(田中都伎子)だったという。その間、世帯数はじつに7万を超え、やがて文京、横須賀、新宿の三支部に発展。当初の文京、豊島、武蔵野(以上、東京)、保土ヶ谷、橋本、(以上、神奈川)の5地区から、全国に多くの地区が誕生していく。


 国境を超えて広がったSGI(創価学会インターナショナル)の「組織の原理」を、池田は文京支部時代につくりあげたとも言える。その日々の証言は、二十代後半から三十代前半の池田が、一人一人にに何を語ってきたのかの記録でもある。