朝は朝星、夜は夜星①
田中正一は1912年(大正元年)に生まれ、浮き沈みの激しい十代を過ごした。生家は旧東海道の品川・鈴ヶ森で名高い料亭を営み、海苔の製造も手がけた。
「寺の檀家総代や神社の氏子総代を何代も務めた名家でしたが、父が小学生の時に祖母が亡くなり、しばらくして祖父も亡くなり、番頭が相場(=投機的な取り引き)に手を出して破産したそうです」(田中芳雄)。
4人のきょうだいは離散。長男の正一は、深川の米屋へ丁稚奉公に出された。16歳だった。上野の西郷隆盛像の前で、数人の級友と別れを惜しんだ。正一以外は全員、進学である。その時の寂しさを後年まで思い起こした。
「1日中働く」ことを、ことわざで「朝は朝星、夜は夜星」という。
「夜が明けないうちに起きて、早朝、大八車を引いて神田の米問屋まで仕入れに行く。まずこれが日課の始まりであった」
「私の毎日というのは、文字通りこのことわざ通りであった」(正一の手記)。集金の帰り、日比谷公園で疲れた足を休めながら、皇居を眺めては「あそこと取り引きできたら、お金のとりっぱぐれがなくていいな」と夢を思い描いた。
24歳で独立。飯田橋に米屋を開いた。都伎子と結婚し、小石川区(現・文京区)に移った41年(昭和16年)、太平洋戦争が始まった。東京は空襲で焼かれ、戦後も配給制で思うような商いはできなかった。
50年(昭和25年)の春、2歳だった長女の高木博子(文京池田区婦人部議長)が鉛のおもちゃを飲み込んだ。病院に担ぎ込んだが、胃を調べる器具が食堂を傷つけて化膿し、生死をさまよった。正一が学会に入ったのはその時である。37歳だった。
「一家で信心を始めて数日後には(自分は)元気に退院したそうです」と博子は語る。
さらに一年も経たないうちに、家業の米屋が宮内庁御用達に選ばれ、同庁に納めるようになった。十代からの夢が実現したのである。不思議なものだと喜びながらも、正一は学会活動を避けがちで、熱心な都伎子の陰に隠れていた。
正一の心を一変させたのは、25歳の池田との出会いだった。