「学会青年部は誰より私が一番愛している」②
「池田先生はともかく青年を大事にされた」、その反対に「支部の成果が悪いと、壮年の幹部は青年ばかりを追及した(笑い)」と甚野緑が語り残している。
ある座談会。池田は、ぶだん青年につらくあたっている壮年幹部たちに対し、いくつかの社会問題について質問した。誰も答えられなかった。池田は、「今、青年部は将来の飛躍のために、広宣流布の人材となるために、そういうことも勉強しているのです。どうか青年を大事にしてください」と頭を下げた。
その場にいた甚野。「実は私もその答えはわからなかったのですが(笑い)、そのように守ってくださった。だから皆、安心してついていった」。
1954年(昭和29年)4月11日が、第一部隊長として最後の最後の会合だった。
「皆、別れるのが、淋しそう。良く戦ってくれた。感謝する。良くついて来てくれた。有難う。良く耐えて来てくれた。天晴れだ。君達を、生涯、断固、護ることだろう。帰宅、11時を過ぎる。途中、新橋にて、今までの代表幹部、二、三名を誘い、やき鳥を御馳走する。『永遠の都』の本を贈る」(1954年4月11日)
1週間後の日記には、池田の率直な悩みが綴られている。
「死ぬほどつらい、疲れている。・・・・・・人材が欲しい。人材を育てよ。人材を見つけ出せ。安部次郎の『三太郎の日記』を読む」(同4月18日)
「自分を知ってくれる友は、少ない。自分を信じてくれる同志は、少ない。吾れを真実育ててくれる人は、少ない、吾を本当に譲ってくれる人も、少ない。
いや、その甘い考えがいけないのだ。一切法といえども、一念にある。人を批判する前に、自己を、自分を、吾れをと、反省し、自らの信心の凝視を忘るるな」(同4月19日)
この時──池田は数々の役職をを兼ねながら、かつて「あるのかないのかわからない」と言われるほど低迷していた一つの支部を立て直すために奔走していた。
東京の文京支部である。