EIKOの気まぐれ闘病日記 -140ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「夫と子どもが信心しをません」


 座談会では弘教をめぐっても、さまざまな質問が出る。ある婦人が池田に「夫と子どもが信心しません」と質問した。池田は「あなたは何を信じているんですか」と尋ね返した。

 婦人はきょとんとして、何も言えなかった。池田はこう答えた。

「自分の悩みがあるから、乗り越えたいから、信心をされているんでしょう?『私は人生に必要を感じて、この信心をやっています』、そう言うのが折伏なんです。ご主人や子どもさんに『あなたもやんなさい!』。これが余計なんです」。その場にいた1人が「先生は、家族の折伏には、それはそれは慎重に、強引にではなく、心配りをするようにおっしゃっていました」と語り残している。また、相手に対して一方的に話し続けるくせのある人には「相手が『実は・・・・・』と言い出したら本物です。それを言い出さないうちは、信用されていない証拠です」と諭した。弘教に限らず、学会員の個人指導に向かう幹部にも池田は同じことを語っている。


 保土ヶ谷地区に所属していた深見宜子(横浜市、地区副婦人部長)

「話の内容はよく覚えていないんですが、先生の迫力だけは決して忘れられません」。その深見から座談会に誘われた桜井節子(横浜市、婦人部副本部長)は20歳だった。

 「『なぜわが家はこんなに不幸なんだろう』とか『宗教なんかできるか』と思っていました。嫌々、文京の田中支部長宅に行ったんです。8月の暑い日でした」

 桜井の母が先に信心していた。

「貧しさと病気の絶えない家でした、いつも誰かが入院しているような状態で。私も小学生の頃からお勝手(=台所)に立っていました」。

 母が勤行しるようになり、嫌で仕方なかった。

「それが、文京支部の座談会で先生の堂々とした勤行を聞いて、それまでの宗教のイメージが吹き飛びました。『私もやってみよう』と思ったんです。保土ヶ谷地区にもよく来てくださいました」。数人で池田を京急線の横浜駅まで見送った時、桜井は父が信心に反対していることを相談した。池田は「娘が1人、信心を貫けば、一家は成仏できるよ」と励ました。


 26歳の池田の日記には、学会員の抱える多種多様な悩みに向き合う心境が記されている。

「先生、先輩の指導は、本当にうまい。その人の悩み、求めている要点を、良くつかみ、解明している。簡単のようで、実に大切なことだと思う。此の指導によって、その人の一生が決まってしまうのだ」(1954年3月11日)

 「午後、本部面接の担当。計30数人の指導で終わる。自己の指導が、はたして相手を納得せしめえたか、否か──。未熟な自分を、早く成長、向上させねばならぬ」(同7月9日)

 「午後、本部にて面接担当。元気で責任を果たす。一人の人の悩みを根本的に解決する。尊いことだ。偉大なことだ。実に有り難いことだ。百千万の立派は理論にも勝る。大政治家の議会報告にも優れている。その名は──折伏」(同10月14日)

 「その人の悩みがどこにあるか。川の流れが止まるのは、どこかにゴミがつまっているからだ。その機微を知らずして、信心の指導は通じぬ」(同10月18日)

 心を曇らせてしまう「機微」をその場で見抜き、「ゴミ」を払いのけ、心を晴らす言葉を発する。止むことのない「言葉の闘い」に、池田は心労を尽くし続けた。


座談会は「幹部」が「一兵卒」の働きを②

 

「いくら親孝行しても、人に信用されても、福運というものが消えてしまえば幸福になれません」「一番大切なのはあなた自身の福運です」と語る池田の話を目の前で聞きながら、都峰子は「この人はよくわが家のことがわかるなあ」「こんな若い人が信心をしているのか」と驚いた。そして池田に、東京物理学校(現・東京理科大学)の学生だった兄の話をした。

 ──優秀な兄の栄を卒業さえるため、病弱だった両親を支え、3人の弟妹は進学をあきらめて働いた。やす子は日本橋の三越に、都峰子は貯金局に勤めた。しかし栄は卒業直前、結核で倒れてしまった。苦しい療養生活の末、「人間が生きていくための正しい宗教があるわけだがら、探してきてくれ」と言い残して亡くなった。

「兄の言葉はすっかり忘れていましたが、あの時、先生の話を聞いているうちに思い出したのです」。

 

正直者が損をする世の中ではないか。人生は不公平ではないか。都峰子はそうした思いを吐露した。池田は「お兄さんは最後まで正法を求めていたんです。ご冥福を祈ってあげてください」「人間だから南無妙法蓮華経と唱えることができるし、人の心もわかる。悩みもわかるんです」と語った。

「じっと目を見つめ、やさしく静かな声で『人間は幸せになるために生まれてきたんですよ』と。初めて会ったのに初めてと思えない、不思議な人だなと感じました」。翌日、都峰子は信心を始めた。


「真っ先に両親や親戚を折伏しました」と振り返る。

 「相模鉄道に婦人部数人で乗っていた時、ばったり先生とお会いしたこともありました」。池田は「御書(日蓮の遺文集)、持ってる?」と訪ね、その場が足跡の座談会になった。

 「叶ひ叶はぬは御信心により候べし 全く日蓮がとがにあらず」(日厳尼御前御返事)。自分の人生は自分の信心で決まる。決して人任せにするなと戒めた一節である。

 こう続く。──水が澄めば月が映る。風が吹けば樹木が揺らぐ。皆の心は水のようなものです。弱い信心は濁った水であり、潔い信心は澄んだ水のようなものです。樹木という「道理」をも揺るがす風のように祈るのです(趣意)──

 池田は御書を片手に「純真な信心にのみ功徳が顕れる、という道理を説いた御書ですよ」と語り、一人一人の悩みを聞いた。

 都峰子はのちに新宿支部の初代婦人部長などを歴任する。夫が仕事で挫折した千葉の九十九里町にも趣き、10世帯、20世帯と弘教を重ねた。

  座談会は「幹部」が「一兵卒」の働きを①


 「先生が真っ先に手を打たれたのは座談会だった」(田中正一の手記)。池田は座談会について「中心者がわからせよう、わからせようと話して、一方通行になってはいけない、聞き上手になりなさい」「家庭のこと、経済のこと、なんでも聞いてあげなさい。そのなかから人と人とのつながりができて組織はよくなる」(同)と強調した。文京支部の沼津地区に所属していた陶山智恵子(神奈川、婦人部副本部長)。

「沼津の会合で『どうしたら折伏できますか』と質問した時、先生から一言、『座談会に誘うことですよ』と教わりました」。

 「座談会は幹部が一兵卒の働きをせよ」(1956年9月9日、文京支部指導会)、

「学会は今組座談会(=最も小規模の座談会)によって、歴史も訓練も、組織もつくられている。もし、これを軽視するようなことがあれば、すべてを軽視することに通ずる」(同10月25日、文京支部班長会)。池田はこの鉄則を貫いた。

 文京支部に派遣されて2カ月後。

「本日までの折伏、百十四世帯。支部発足以来の成果となる。来月は、二百世帯突破を誓い合う」(1953年6月21日の日記)。4ヵ月後の10月は、弘教の数が300世帯を突破。

「秋雨。1日1日の過ゆくことの速きことよ。大河の流れに似たり。吾れ、いか程の成長ありや。猛省せん・・・・・明日の地区部長会の打ち合わせに、幹事二人、来宅」(同10月17日)。そして12月は400世帯を超えた。座談会を通して、無数の「一対一の対話」が生まれた。


 「昭和28年の5月でした」。92歳の香峰子都峰子(千葉・松戸総県婦人部主事)が語る。

「姉に連れられて座談会に行ったんですが、私のほうが先にはじめたんですよ」。

 戦争中、姉のヤス子は満州の延吉に住んだ。職業軍人の夫はニューギニアで餓死した。

「神社に日参していた姉は、『この世は神も仏もない』と思うようになって帰国しました」。

 都峰子も「死ぬことばかり考えていた」という。父の事業が失敗し、夫の光希は勤めていた会社が倒産。そのうえ結核になった。

「3人の子のうち長男も結核、喘息、大腸炎でやせ細り、治療費どころか食費も事欠き、笑い声の聞かれない家でした」。

 敗戦後、姉のヤス子は行政書士の資格をとった。事務所に来た客が学会の話をし、座談会場の地図を書置きして帰った。ヤス子は「あなたは不幸続きだから、聞いてみてよかったらやりなさい」と言って都峰子を誘った。

 姉妹は地図を頼りに、池袋駅近くの「杉田屋」という看板を探した。染物屋だった杉浦寛樹(初代だの豊島地区部長)の家である。

「姉はすぐ帰れるように出口近くに座り、私はなぜか最前列に座りました」。その座談会の担当は池田だった。

   朝は朝星、夜は夜星②


 池田が初めて雑司ヶ谷の田中宅を訪れたのは、53年(昭和28年)4月25日だった。文京支部の班長会である。案内もなく、ずいぶん道に迷った。

「池田先生を表通りまで迎えに行けばよかったのに、成果が出なくて落ち込んでいて、気配りする余裕もなかった」(井上太平。当時、橋本地区)という。参加者たちが残した証言によれば、会合はまず、題目三唱の「声を合わせる」ところから始まった。

 「やり直し、やり直しで、やっと合った。その時先生は『呼吸が合えば、戦いは必ず勝つ。呼吸が合わなければ、何をやっても負けてしまうものだ。それが戦いの根本です』と言われた」(宮崎正義。当時、保土ヶ谷地区)

 信心を始めて1ヵ月だった太田久雄(当時、武蔵野地区)。

「私の記憶では題目三唱を9回やり直され、10回目にやっとそろった。それまでそんなことは一度も言われたことがなかったので、本当に驚いた」。

 「皆の個の力は小さいが、力を合わせれば1人の力が5にも10にもなる」という一言が忘れられないメンバーもいた。池田はその場で「ひと月200世帯の弘教を目指そう」と語った。どれだけやっても100世帯に届かない現状である。「いったい誰がやるのかしら」と目を丸くする婦人部員もいた。

「先生は『驚いた?』と言われ、懇々と蒲田支部の例をあげて『必ずできる』と話されました」(井上シマ子。当時、文京支部婦人部長)。

 「思ったよりいい支部です」と励ましつつ、池田は「文京は人柄がいい。しかしそれだけではいけない」と訴えた。

「人間には意地というものが必要だ。文京にはその意地がない。必ずこうなるのだ、こうするのだという意地を出そう」。そしてこの日から三回にわたって日蓮の「諸法実相抄」を講義した。


 家主である田中正一は、自宅で会合のある時、皆にみつからないように静かに帰宅し、別室で1人で夕食をとっていた。

「その日も父はそーっと帰ってきたそうです」(長女の高木博子)。そこへ、「田中さんのご主人!」と池田が声をかけた。見つかってしまった正一は、会合中の六畳間におずおずと顔を出した。

 「お邪魔しています。いつも奥様はご苦労さまです」「ご主人もこちらへいらしてください。なんにも話さなくていいんですよ」。この池田の一言を一言で、正一の緊張がほぐれた。誰よりも妻の都伎子が喜んだ。

 「父は最初、『この人はいったい何歳だろうと思った』と言っていました」(次男の清文、文京総区長)。

「威張らない。隙がない。祈り方も、覇気も、話の内容も、それまでのどの幹部とも違って、父は反発する理由がなくなったのでしょう。それからは、何でも池田先生に相談するようになりました」(田中芳雄)。

 その日を境に、正一は信心に本腰を入れた。地区部長を経て、2年足らずで文京支部長に就任。「朝は朝星、夜は夜星」で鍛えた意地を、学会活動に注ぎ込んでいく。

    朝は朝星、夜は夜星①


 田中正一は1912年(大正元年)に生まれ、浮き沈みの激しい十代を過ごした。生家は旧東海道の品川・鈴ヶ森で名高い料亭を営み、海苔の製造も手がけた。

「寺の檀家総代や神社の氏子総代を何代も務めた名家でしたが、父が小学生の時に祖母が亡くなり、しばらくして祖父も亡くなり、番頭が相場(=投機的な取り引き)に手を出して破産したそうです」(田中芳雄)。

 

4人のきょうだいは離散。長男の正一は、深川の米屋へ丁稚奉公に出された。16歳だった。上野の西郷隆盛像の前で、数人の級友と別れを惜しんだ。正一以外は全員、進学である。その時の寂しさを後年まで思い起こした。

 「1日中働く」ことを、ことわざで「朝は朝星、夜は夜星」という。

「夜が明けないうちに起きて、早朝、大八車を引いて神田の米問屋まで仕入れに行く。まずこれが日課の始まりであった」

「私の毎日というのは、文字通りこのことわざ通りであった」(正一の手記)。集金の帰り、日比谷公園で疲れた足を休めながら、皇居を眺めては「あそこと取り引きできたら、お金のとりっぱぐれがなくていいな」と夢を思い描いた。


 24歳で独立。飯田橋に米屋を開いた。都伎子と結婚し、小石川区(現・文京区)に移った41年(昭和16年)、太平洋戦争が始まった。東京は空襲で焼かれ、戦後も配給制で思うような商いはできなかった。

 

50年(昭和25年)の春、2歳だった長女の高木博子(文京池田区婦人部議長)が鉛のおもちゃを飲み込んだ。病院に担ぎ込んだが、胃を調べる器具が食堂を傷つけて化膿し、生死をさまよった。正一が学会に入ったのはその時である。37歳だった。

「一家で信心を始めて数日後には(自分は)元気に退院したそうです」と博子は語る。

 さらに一年も経たないうちに、家業の米屋が宮内庁御用達に選ばれ、同庁に納めるようになった。十代からの夢が実現したのである。不思議なものだと喜びながらも、正一は学会活動を避けがちで、熱心な都伎子の陰に隠れていた。

 正一の心を一変させたのは、25歳の池田との出会いだった。