EIKOの気まぐれ闘病日記 -139ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  怨嫉(おんしつ)が団結を壊す


 「文京支部時代、『団結』というものがいかに大切なのかを学びました」と金子都峰子は語る。それは、会合などの「見える場所」での話ばかりではなかった。

「具体的には、先生から『家庭内で愚痴を言うのは一番よくない』と教わりました」という。

「どれだけ熱心に学会活動をしても、家に帰って、あの人はどうの、この人はこういう点がよくないだの、批判がましく話してはいけないのです。子どもは親の姿をよく見ています。『人前と家庭とで、話が違う』と思い、疑問を感じてしまう──こういう話を通して、団結の重要性を指導されました」。

 池田は「楽しい信心をするには、第一に、怨嫉をしないこと」(1956年10月25日、文京支部班長会)と戒めている。

「怨嫉こそ、つまらないものはない。これは闘争の的(=目的)がなくなると出てくる。・・・・怨嫉すると、百年の功も一言で破れる・・・・・そういう弱い根性が出たならば、それを乗り越えていく題目をあげることだ」。


 この指導を実践した人は数多い。

「両親は学会活動で家にいないことが多く、一人っ子の私が留守番役でした」と田中優子(練馬区、分区副婦人部長)は語る。両親は文京支部の一員だった。1052年(昭和27年)、3歳だった優子の病気をきっかけに信心を始めた。母の高橋歌子は「何かにつけて消極的で、先輩に引っぱっていただかなければ、一人で何も出来ない弱い私でした」と書き残している。

 「でも母は、自宅で一緒に食事する時は、いつも『座談会ではこういう人がいて、こういう体験をしてね』とか、『池田先生はこういう指導をされたのよ』とか、実に楽しそうに話してくれました。愚痴を聞いた記憶がありません」。優子はいつしか「大きくなったら私も学会活動というものしてみたい」と思うようになった。

 1962年(昭和37年)1月、父が病気で亡くなった。一人娘の優子は中学1年だった。会長就任から2年目の池田は時間をこじあけ、母の歌子から細かく家庭の状況を聞き、「御本尊をご主人と思って信心していきなさい」と励ました。

「先生は、母が働いていた実家のクリーニング店に、わざわざご自分のワイシャツを出されたこともありました」(優子)。

 母1人、娘1人になって8年が過ぎた。練馬で学会活動に励んでいた。池田から『人間革命』の第四巻が届いた。表紙をめくると、池田の直筆で「本当によく頑張って/来られた。 嬉しい。/優子ちゃんも 立派に育つ。/すべてに 最后(さいご)の 幸福の/大勝利になることのみを祈っている」と書いてあった。

「何度も何度も読みかえしました。先生はこれ程までに私達母娘を見守っていらして下さったのか・・・・目頭が熱くなり泣いてしまいました」(歌子の手記)。

 「母は71歳で亡くなりました。末期の大腸ガンでしたが、痛みはなく、食事も普通にしていました」(優子)。亡くなる前々日も、石神井会館(当時)での会合に参加している。

「訃報を聞いた人たちは一様に信じられない様子でした。それくらい元気だったのです。仏法者として見事な最期だったと思います」。

 歌子の訃報に接した池田は、追悼の和歌を詠んだ。

「忘れまじ 広宣流布の女王たる 文京家族の 母たる君をば」

   庶民の声は天の声②


 「『福美屋』という炭屋さんがあった。それが萩野勘治さん宅である。国電『池袋駅』の近くであった」(『忘れ得ぬ同志』)。萩野は武蔵野地区の地区部長として活躍した。

「当時は料理も暖房も炭、戦後しばらくは車も木炭で走っていました。父が学会活動で忙しいと、母が真っ黒になって店を切り盛りしました」(次男の萩野文弘。豊島区、副本部長)。

 田中さん(=田中正一)のお宅が米屋さんで、萩野さんが炭屋さんであった。『スタンダールの「赤と黒」ではなく、「白と黒」の出会いだね』と笑ったことを覚えている」(『忘れ得ぬ同志』)。文京支部は何度か全国トップの弘教を達成するが、田中夫妻と萩野は、いわば長年の「戦友」だった。

 

「父が亡くなった後、田中都伎子さんが泣きながら私に打ち明けてくれたことがありました」(萩野文弘)。都伎子は文弘に「池田先生が第三代会長になるまでの7年間、ずっと訓練を受けたが、一番の思い出があります」と切り出した。

 ──勘治さんが地区部長だった時、明治生まれで職人あがりの勘治さんは、書類をまとめる雑務や、数の報告が苦手で、幹部としてやるべきことを、なかなかうまくできなかった。私は一度、そんな勘治さんのことを、上から下に見るような感じで、池田先生にお話したことがありました──

 田中は池田から「烈火のごとく、目から火が出るほど怒られた」という。「そんな目でしか見られないのか! 真っ黒な顔をしても、仕事で会合に遅れても、彼はちゃんと来るじゃないか。あんな真面目な人がどこにいるのか!」と。この叱責が「一番の思い出」になった。

 ──勘治さんはいつも炭まみれになって、仕事をぎりぎりまでやって、風呂にも入らず、タオルを首に巻いて会合に駆けつける日々だった。そんな姿を池田先生はしっかり見守っておられた。いつか息子のあなたに話そうと思っていました──


 池田の会長就任後、池田から萩野夫妻に届く激励には、しばしば「田中さんご夫妻二人で届けてください」と伝言が添えてあった。

「先生の心遣いはいつも『ここまでされるのか』と驚くほどきめこまやかです。田中さんご夫妻にも本当にお世話になりました」と文弘は語る。

  庶民の声は天の声①


 池田は文京の地区部長たちに「上に強く、下にやさしく信心しよう」(1956年9月16日、文京支部地区部長会)と訴えた。幹部の小さな一挙手一投足が、学会員に大きな影響を与える場合がある。その点を池田が厳しく戒めた証言は数知れない。「若き日の日記」にも、この「上に強く、下にやさしく」の精神性が刻まれている。

 「6時、市部長宅、班長会議。幹部を叱る。可哀相に。心で謝る」(1954年1月12日の日記)

 「皆、庶民の代表である。だが宰相より、大学者より、賢明な話をする時がある。これ等の人々と交わることは、天の声を聞くと思わねばなるまい。生涯、庶民の味方になることだ。生涯、大衆と共に生き抜くことだ」(同7月24日)

 「いくら偉くなっても、威張るな。人生は、先輩、後輩の姿を、慈愛と道理で築かなければならぬ。さなくんば、所詮、人材は出でず」(56年12月13日)


 ある男子部が文京支部の打ち合わせ場所に、急ぎの資料を運んできたことがあった。応対した田中都伎子は、玄関で資料を受け取り、「ご苦労さま」と言って戻ろうとした。

「すると先生は正座して手をついて、その青年を見送られたのです。私は立ったまま応対していました」。池田はその青年に頭を下げ、「ご苦労さま、君はなんていうお名前?」 「歩いて来たの?ご苦労さま、気をつけて帰ってね」と声をかけて送り出した。都伎子は最初、「冗談だと思った」という。それほど池田の対応が丁寧だった。

 青年が帰った後、池田は「さっきの態度はなんですか」と都伎子を叱責した。──彼は先輩幹部に頼まれてやって来た。自分の予定があったかもしれない。やろうと思っていたことがあったかもそれない。それを、遠いところをわざわざ歩いて来てくれた。最大の礼を尽くすのが学会幹部ではないか──幹部のあり方を懇々と説いた。


  リンゴの味は食べないとわからない


 田中都伎子は生前、池田の姿を文京の青年部に語り残している。

 1954年(昭和29年)7月、池袋の常在寺での会合に、60人ほどの新来者が集まった時のことである。式次第はそれぼどの大人数を想定していなかった。池田は「今日はぼくが全部やるから」と支部長の田中に告げ、1時間半ほどの会合を最初から最後まで1人で担当した。

 「結局そのうち40人以上も信心を始めました。青年も、どこかのお店の女将さんも、女子部の世代もいろんな人がいました。先生が話すと場内の雰囲気が柔らかくなるんです。誰よりも勉強になったのは文京支部の私たちでした」(田中)

 池田は新来者たちに声をかけた。並んで座っていた壮年二人に「そこのご主人お二人、お友だちでしょうか」「お住まいはどちらですか」と尋ねた。眉の太い壮年が、不自由な左足を伸ばしたまま「日本橋」ですと答えた。寺島義人(第六代支部長)である。40代半ばの会社経営者で、当時、胃潰瘍と十二指腸潰瘍を併発し、体が弱っていた。

 この日の出会いについて「細長い机を並べて、中央に若い、ハツラツとした青年が、1人1人に話された。人をひきつけるようような感じに、その青年の話には耳を傾けた」と書き残している。

 池田にとっても印象深かった。

「真夏にもかかわらず、白い背広をキチンと着た口ヒゲの紳士が私には強く目についた。この人が寺島さんで、最後まで宗教の正邪、信仰と生活のことについてくい下がってきた人である」(『忘れ得ぬ同志』)。

 「先生は頑固な父に『この信心で必ず願いが叶いますよ』『リンゴは食べてなければ、リンゴの味はわかりませんよ』と話されました。仏法用語よりも、明快なたとえ話に納得したようです」(長男の秀幸、八王子総区主事)。寺島はその日の夜、家族を集めて「あのよくできた若い人を信じて、今日から創価学会に入ることに決めた」と宣言した。

 数日後、寺島は杖をつき、池田夫妻の住む秀山荘に1人でやって来た。

「父なりに喜びを表現したかったのでしょう、一升瓶を持って先生のお宅を訪れ、『とにかくあなたが気に入りました』とだけお伝えして、帰ってきました」(次男の寺島利憲、第二総東京参事)。寺島の弘教はその月だけで10世帯を数えた。


 ある日の座談会。虎の入れ墨をした若い男がひやかしに来たことがある。講道館で柔道四段だった寺島は「キサマのは虎じゃなくて猫だ!」と一喝。肝をつぶしたその男性も、やがて信心を始めた。

 20歳年下の池田を慕い、「若いが第二の父であり、師匠であると心に誓った」という寺島。日本橋地区部長として「首都圏は座敷のうち。福島ぐらいは庭先だ」と弘教に歩き、福島県に初の支部が誕生する先駆けとなった。

 常々、「雪のような純白な信心で生き抜きたい」と周囲に語っていた。寺島の病が篤くなるたびに池田は「正本堂建立まで生きるんだよ」「あと20年は絶対に生きるんだ」と励まし続けた。池田との出会いから23年目の冬、68歳の生涯を閉じた。雪の日だった。

 寺島が文京支部長の時に地区部長だった鈴木卓也(江東区、副本部長)。

「追善法要で池田先生が、『雪を見ると、寺島さんを思い出すなあ』と静かに言われた一言が忘れられません」。