庶民の声は天の声②
「『福美屋』という炭屋さんがあった。それが萩野勘治さん宅である。国電『池袋駅』の近くであった」(『忘れ得ぬ同志』)。萩野は武蔵野地区の地区部長として活躍した。
「当時は料理も暖房も炭、戦後しばらくは車も木炭で走っていました。父が学会活動で忙しいと、母が真っ黒になって店を切り盛りしました」(次男の萩野文弘。豊島区、副本部長)。
田中さん(=田中正一)のお宅が米屋さんで、萩野さんが炭屋さんであった。『スタンダールの「赤と黒」ではなく、「白と黒」の出会いだね』と笑ったことを覚えている」(『忘れ得ぬ同志』)。文京支部は何度か全国トップの弘教を達成するが、田中夫妻と萩野は、いわば長年の「戦友」だった。
「父が亡くなった後、田中都伎子さんが泣きながら私に打ち明けてくれたことがありました」(萩野文弘)。都伎子は文弘に「池田先生が第三代会長になるまでの7年間、ずっと訓練を受けたが、一番の思い出があります」と切り出した。
──勘治さんが地区部長だった時、明治生まれで職人あがりの勘治さんは、書類をまとめる雑務や、数の報告が苦手で、幹部としてやるべきことを、なかなかうまくできなかった。私は一度、そんな勘治さんのことを、上から下に見るような感じで、池田先生にお話したことがありました──
田中は池田から「烈火のごとく、目から火が出るほど怒られた」という。「そんな目でしか見られないのか! 真っ黒な顔をしても、仕事で会合に遅れても、彼はちゃんと来るじゃないか。あんな真面目な人がどこにいるのか!」と。この叱責が「一番の思い出」になった。
──勘治さんはいつも炭まみれになって、仕事をぎりぎりまでやって、風呂にも入らず、タオルを首に巻いて会合に駆けつける日々だった。そんな姿を池田先生はしっかり見守っておられた。いつか息子のあなたに話そうと思っていました──
池田の会長就任後、池田から萩野夫妻に届く激励には、しばしば「田中さんご夫妻二人で届けてください」と伝言が添えてあった。
「先生の心遣いはいつも『ここまでされるのか』と驚くほどきめこまやかです。田中さんご夫妻にも本当にお世話になりました」と文弘は語る。