EIKOの気まぐれ闘病日記 -138ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  「父も見ている」


 富美子の父、有馬馨は「武蔵」の竣工引渡し式で、「本艦は、絶対に沈むことのない不沈艦である」(『戦艦「武蔵」』j光人社)と訓示したという。

「温厚篤実な性格の反面、しんのつよい典型的な武人で、柔和な顔を太った身体に乗せて、悠揚(ゆうよう)せまらざる人格者の風貌をみなぎらせていた」(同)。

 連合艦隊司令長官の山本五十六が戦死した際は、艦長として遺骨を日本まで還送した。その後、江田島の海軍兵学校教頭に。「敗戦後」を見据えてリベラルな教育を進めていた校長の井上成美を支えた。

「小学生だった私と一緒に兵学校の敷地を歩くのですが、皆が敬礼するので、父はわざわざ人の通らない道を選ぶこともありました」(富美子)。

 かつて艦長だった「武蔵」の最期は、南西方面艦隊参謀長として知った。フィリピンのバギオで行われた降伏調印式には、日本側代表の1人として出席している。

 「両親が信心を始めるきっかけは私の病気でした」(富美子)。結核菌が首のリンパ節で炎症を起こし、ひどく膿んだ。母の喜久子まず入会した。

「ある時、外出から帰ってきた父が一言、『戸田会長の話を聞いてきた』と言いました。それからひと月ほど経って、父も勤行と唱題を始めたのです」。


 有馬は自宅を座談会の拠点にした。知人二人に弘教もしている。学会の鎌倉会館に勤めていた林尚子(神奈川、婦人部副本部長)。

「父が有馬馨さんのお宅に間借りしていたこともあり、有馬さんから折伏されてわが家は信心を始めました」。

 有馬が使っていた御書を見せてもらった。「日蓮は日本国の諸人にしうし父母(主師親)なり」(開目抄)、「但(ただ)題目の五字なり」(観心本尊抄)等、随所に赤い傍点が振られていた。

 1956年(昭和31年)に馨が亡くなった後、妻の喜久子はがっくりと気を落とした。池田は「戸田先生に全部ご報告してあります。なにかあったら、いつでも本部へいらしてください」と励ました。

 「会合の帰り、池田先生と同じ列車に乗り合わせたこともありました」と冨美子は振り返る。

「ちょうど戸田先生の『方便品寿量品精解』という本を買ったばかりで、『なにか一言書いてください』とお願いしました。混み合った車内で、今から思えば失礼なことでした」。

 同書は戸田が亡くなる2カ月ほど前に刊行された、法華経の解説書である。池田は車内で立ったまま、「南無とは 敬う心なり 随(したが)う心なりと。 南無しきった人が、清く、そして幸の花を 満開する事が出来るのだ 2月25日」と書いて冨美子に渡した。


 10年後の1968年(昭和43年)には、完成したばかりの自著に次のように揮毫して贈った。

   「元気かね

     いつも 心配しています。

     母娘で 誰よりも 雄々しく

     信心し 誰よりも 幸福に

     なって戴きたい

     父も見ている、僕も見守っている。

     有馬母娘殿」


 池田から「80まで生きてくださいよ」と励まされた喜久子は、83歳で生涯を終えた。人と人との縁は不思議なものである。冨美子は池田の妻、香峰子と女学校時代の同級生でもあった。

 今日の昼間、何気なくテレビを見ていて、隣の町のスーパーのATM


コーナーに車が突っ込んだというニュースをやっていました。



 どこのスーパーだろうと映像を見てびっくり!!


なんとそこは、私が以前勤めていたスーパーでした叫び


道が狭い所にあるキャッシュコーナーで、いつも行列ができている場


所で、前から危ないなと思っていました。


 突っ込んだのは隣の隣の町に住んでいる79歳のおじいさんでした。


アクセルを強く踏みすぎたとの事車


 現場を見た人によると、キャッシュコーナーの外で待っていた人は逃


げられたようですが、中にいた人は血だらけだったようですあせる


 世の中何が起きるかわかりませんね~ビックリマーク


 久々に身近な所が全国ネットのニュースに出て、びっくりしました叫び

 6月27日は2ヶ月ごとの血液検査の日でした病院


 私は長年の抗うつ剤の服用のため、以前は肝機能が最悪でしたが、


今回の検査ではまずまずの結果でしたニコニコ


 一時中性脂肪が増えてしまいましたが、食生活やサプリメントなどで


何とか今回も正常値でしたニコニコ


 少し貧血気味で、プルーンやあさりを食べるように言われました。


 通院後とても体がだるくて重く、中々皆さんの所にお邪魔できなくてす


みませんm(__)m


 これからお邪魔したいと思いますニコニコ


いつもありがとうございますm(__)m

  「青年を用いよ」 ②


 上京して働き口を見つけ、夜は神田の電機学校に通った。日給120円の日雇い仕事の時もあり、学費を払うとコッペパンしか食べられないような日が続いた。よく夢を見た。「武蔵」の横腹に魚雷の白い航跡が突き刺さる。轟音が響き、戦友たちが悲鳴をあげて次々と倒れていく・・・・・地獄の海の光景に何度も苦しめられた。

 1951年(昭和26年)の秋、康宏は谷と武部という二人の婦人部員から折伏され、信心を始めた。職場では「学会員だから」という理由でいじめにあい、自転車で2時間もかかる建設現場に行かされたこともあった。

 池田とともに題目三唱を何度も繰り返した、あの田中宅の会合が、康宏の人生の転機点になった。同年の夏、職場で現場監督に抜擢され、環境も徐々に好転していった。

 「池田先生は江戸っ子ですから、気も短いはずですが、それはそれは親切に、気長に、まず中心者と呼吸を合わせることから教えてくださった」 「先生は常に題目と御書が根本でした、御書根本なら、どんなに厳しい指導でも皆の心に入りました」と語り残している。

 千葉の片貝で、日蓮宗の僧が学会員の家々を罵倒して回ったことがあった。康宏は日ごろの研鑽を生かし、御書を引いて破折して謝罪文を書かせた。

「教学はどこにいてもできる。自分を強くするための教学だよ」・・・・・池田の一言一言を青年部の仲間と共有した。

「先生が折伏される現場に何度も立ち会わせて頂いた。当時、大声を出して折伏する人が多かったが、先生は静かで常識的でした」 「先生ほど行動する人はいなかった・・・・・情が深く、一人ひとりのことを本当によくご存じでしたし、心配された」(志水)。

 幼いころに家族と別れた康宏にとって、文京支部の同志が家族になった。

「文京が家族的で、守りあうのは、池田先生がつくられた雰囲気なのです」。


 「あれは長野まで地方折伏に行った時のことでした」。有馬冨美子(目黒区、地区副婦人部長)は文京支部の女子部員だった。列車の中で志水康宏の戦争体験を聞き、「こんな偶然もあるのか」と驚いた。

 「海軍中将だった私の父は、かつて戦艦武蔵の初代艦長を努めていたのです」

  「青年を用いよ」 ①


 「夫は家で学会活動の苦労を言わない人でした」。今年86歳になる志水多美子(渋谷区、支部副婦人部長)が語る。

「家に帰ったら部隊長でも支部長でもない、パパなんだよ、という公私をはっきり立て分ける池田先生の指導を守ったのだと思います」。

 池田の日記に「A君等は、真に戦い抜いてきた・・・・・文京の友が、栄えることの歓(よろこ)び。──文京の友の悲しみは、身を切られる思いなり」(1954年7月2日)という一文がある。この「A君」が、多美子の夫であり、文京支部で青年部の中心者だった志水康宏(旧姓=安保)である。

 池田が来るまで「文京の青年部は、出たか思うとすぐ消える。私で7人目らしかった」(志水康宏の手記)という。青年部の存在感も薄かった。池田は「青年を用いない地区は伸びない」 「大人は青年部をわが子と思いなさい」と事あるごとに壮年部、婦人部に強調し、青年部を通して組織を変えていった。その要が志水だった。


 秋田生まれの清水は6歳で母を、7歳で父を亡くし、きょうだいが離散した。康宏は15代にわたって地元の神主を努める母方の祖父の家に引き取られ、神官になるための修行もさせられた。

 太平洋戦争では海軍を志願し、二等兵曹として、世界最大の戦艦といわれた「武蔵」に乗った。フィリピンのシブヤン海で沈んだ壮絶な記録が数多く残っている。

 猛攻を受けた末、総員退去の命令で康宏は海に飛び込んだ。重油くさい海水を何度も飲みながら波間を漂い、日本の駆逐艦に救助された。その後も乗っていた船を沈められたが生き延び、台湾で終戦を迎えた。

 帰国すると、秋田の屋敷はすでに人手にわたっていた。

「身を寄せる処のない悲しみと、いまだ病める身と戦いながら親類を転々とし、一宿一飯の辛さは今でも忘れる事ができません」(手記)。