連載を愛読してくださる皆様、いつもありがとうござ
いますm(__)m
私も愛読してくださる皆さんのことを思うと、とても
励みになります。(*^_^*)
次回は「民衆こそ王者ー池田大作とその時代」シリ
ーズから「青年の譜(4)「山口闘争」の二十二日」を
連載します。
池田先生の戦いを、ともに学んでいければと思っ
ています。
どうぞお楽しみに!
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次回は「民衆こそ王者ー池田大作とその時代」シリ
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池田先生の戦いを、ともに学んでいければと思っ
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いつも連載を楽しみに読んでくださる皆様、いつもありがとうございますm(__)m
「民衆こそ王者ー池田大作とその時代」シリーズの、「青年の譜(3)文
京支部長代理として」の連載が本日で終了しました。
次の連載はまだ未定です。次の連載が決まりましたらお知らせしますね。
毎日蒸し暑い日が続いていますので、体調管理にはお気をつけてくだ
さいね。
「陰で苦労せる人々」 ②
「(池田先生は)常に戸田先生のご一身を心配されながら、相模原、横須賀方面、更には散在する地方拠点へおもむき、座談会に、講義にと奔走されたのであった。当時、うかつにも私は、先生が病魔と戦いながら指揮をとられていたことにはまったく気づかなかった。後に『若き日の日記』を読んで、そのことを知ったのである」(田中都伎子の手記)
その「若き日の日記」には、さまざまな会合の前後で、次のような言葉も記されている。
「第10回 創価学会定期総会(日大講堂)・・・・・午後8時、全部清掃を終える。黙々と清掃に励む、名もなき男女青年の姿に、頭が下がる。それにひきかえ、指揮をとる立場の自分が、申しわけないように感ずる。生涯、陰で苦労せる人々の心情を、絶対忘れぬことを心に誓う」(1954年5月3日)
「京王地区の総合座談会に、出席。力の限り、指導し、激励して、意気揚々と帰る自分より、これ程まで結集させた、中堅幹部の人々に深く思いを致すべきである」(1955年10月2日)
田中都伎子は亡くなる数年前、文京の青年部に、「陰で苦労せる人々」を尊ぶ池田の象徴的な言葉を伝えている。それは文京支部長代理を終え、第三代会長になった池田が、田中をはじめ最高幹部たちに語った内容だった。
「君たちの何倍も真剣に戦ってくれている人がいるんだからね」
「私と口をきいたこともないし、会ったこともない、そういう人のなかに、本当に学会を守って、がんばってくれている人がいるんだ。そういう人の信心が、私は本物だと思っている」
若き日の池田から薫陶を受けた文京支部の人々は、東京や神奈川にとどまらず、各地に弘教の輪を広げていく。その舞台の一つ──1956年(昭和31年)10月から翌年1月にかけて、当時の全国32支部の大半から派遣メンバーが集った場所がある。そこで初めて池田に出会った人も多かった。
本州の西端、山口県である。
「陰で苦労せる人々」 ①
池田が「(文京支部の)基礎は完全に出来上がった」と日記に書いたのは、1954年(昭和29年)の7月1日である。その前月、池田の体調はこれまでになくひどかった。
「病、弥々(いよいよ)ひどくなる様子」(6月3日)。
「体の具合、全く悪し。死を感じてくる。悲観──苦悩──呼吸するのさえ苦しい。・・・・・疲れてならぬ。早目に就寝」(6月6日)。
「膚(はだ)寒き1日であった。生活費逼迫(ひっぱく)する・・・・・滝を昇らんとする鯉。踏まれて、なお咲く草花。逆境に勝ち、大成した人々。青年期には、こんなにも心の葛藤があるものか。・・・・・・不思議に、死を予感してならぬ。これ死魔というべきか。信心茲(ここ)に7年。最大、最高の試練に向かう。今夜は、とくに苦しく、淋しい。今、1人の友もなく応援なく、力は刻々と衰えていくようだ。涙が、るいるいと流れる。ここで死ぬのはいやだ。弱冠、二十六星霜、生命の奥底(おうてい)も極めず、人類社会に大利益も与えず、師の恩も返さず、これで死んでいくのは、あまりにも残念だ」(6月8日)
小学生だった萩野文弘。
「わが家は武蔵野地区の拠点だったのですが、早めに到着された先生が1階で少し横になり、時間になるとパッと起き上がって勢いよく2階の拠点に上がられる姿を、何度か見ました。肺病や熱があったなんてしらなかった。会合の参加者も、誰も想像していなかったと思います」。
縦横無尽ともいえる活躍の陰で、自分との闘いが続いていた。
「体の具合悪し。宿業の深きを悩む。恐ろしいことだ、宿命とは──。肉体年齢は五十代を過ぎている感じ。あと幾歳(いくとせ)生きることか。感傷的になる日がある」(12月20日)。
「人生の青春。人生の桜花。今、散りゆくは、いと淋し。題目をあげきることに尽きる。仏法の厳しさ、自己の一念の厳しさ、実証のため、自ら奮起あるのみ」(1955年3月16日)
「未来部」の萌芽
「午前中、在宅。子供、うるさい。しかし、元気でよし。子供の成長をまざまざと見、驚く」(1954年8月29日の日記)
昭和20年代の学会には、現在のような未来部(小・中学、高校生のメンバー)の組織はなかった。
「文京支部に池田先生が来られてから、少年部員会が日曜日に行われるようになりました。月に1回ほどでした」。小学生だった田中芳雄は、その場で、御書の一節や学会歌が刷られたわら半紙をもらったことをよく覚えている。
「ガリ版刷りの手作りの紙でしたが、小学校で配られていた黒いインクと違い、青いインクが入っていて珍しかった。私たちが少しでも喜ぶように、担当の方が配慮してくれたのではないかと思います」
小学生だった杉浦勝男(国分寺市、副区長)は「見たこともないようなバラエティに富んだ楽しい集まりだった。あんまり面白いので友達も誘った」と語る。
「大学生のお兄さんたちが、寸劇、模造紙でつくった紙芝居、手作りの人形劇など、工夫を凝らして日蓮大聖人の御生涯や、教学、学会の歴史を教えてくれました」。
文京支部で地区部長だった木下武司。支部の会合が終わった後、池田が発した大声に驚いた。ある青年部幹部が「今、歩いたところを振り返ってみなさい」と厳しく注意されていた。彼は、座布団に寝かされていた子どもを跨いだところだった。
「君は大事な子どもの頭を跨いだ。もう一度、歩き直しなさい」。木下は二度驚いた。寝ていたのは自分の子どもだったのである。
大人の小さな心配りが、子どもにとって忘れられない思い出になることがある。
「先生がわが家を訪問された時、私は中学生でした」(寺島利憲)。池田は背広のポケットから名刺を取り出し、利憲に「生涯、友だちになろうな」と言って渡した。
「未熟児で生まれた私は、小さいころから病気がちで、母が先生にそのことを話していたのかもしれません」。
同じく中学生だった松尾延枝(神奈川、婦人部副本部長)。
「自宅で会合が行われていたのですが、私は家の外で、参加者の小さいお子さんたちの面倒を見ていました」。
車で到着した池田は、白いカーネーションを1本、松尾に差し出した。
「その会合には参加していないのですが、本当にうれしくて、会合が終わった後も、先生が帰られるまでそのカーネーションを握りしめていました」。
井上光央(総東京参事)は中学三年の時、1歳に満たない妹を抱いて母のシマ子と一緒に田中宅に行った。
「何か大事な打ち合わせが行われていたようです。隣の部屋で妹をあやしながら『いつ終わるかな』と待っていました。
しばらくして、先に1人出てきた池田は、その部屋を横切りながら「一度、うちに遊びにいらっしゃい」と声をかけた。
「それから9年後のことです。本部職員になって、先生の御席にご挨拶にうかがった時、先生から『君には妹がいたね』と言われました」。なぜご存じなのか、と不思議な顔をした井上。
「田中宅での出会いを思い出すのに、だいぶ時間がかかりました。先生は、あの一瞬の、しかも子どもとの出会いも忘れない人なのか、と本当に驚きました」。