「陰で苦労せる人々」 ②
「(池田先生は)常に戸田先生のご一身を心配されながら、相模原、横須賀方面、更には散在する地方拠点へおもむき、座談会に、講義にと奔走されたのであった。当時、うかつにも私は、先生が病魔と戦いながら指揮をとられていたことにはまったく気づかなかった。後に『若き日の日記』を読んで、そのことを知ったのである」(田中都伎子の手記)
その「若き日の日記」には、さまざまな会合の前後で、次のような言葉も記されている。
「第10回 創価学会定期総会(日大講堂)・・・・・午後8時、全部清掃を終える。黙々と清掃に励む、名もなき男女青年の姿に、頭が下がる。それにひきかえ、指揮をとる立場の自分が、申しわけないように感ずる。生涯、陰で苦労せる人々の心情を、絶対忘れぬことを心に誓う」(1954年5月3日)
「京王地区の総合座談会に、出席。力の限り、指導し、激励して、意気揚々と帰る自分より、これ程まで結集させた、中堅幹部の人々に深く思いを致すべきである」(1955年10月2日)
田中都伎子は亡くなる数年前、文京の青年部に、「陰で苦労せる人々」を尊ぶ池田の象徴的な言葉を伝えている。それは文京支部長代理を終え、第三代会長になった池田が、田中をはじめ最高幹部たちに語った内容だった。
「君たちの何倍も真剣に戦ってくれている人がいるんだからね」
「私と口をきいたこともないし、会ったこともない、そういう人のなかに、本当に学会を守って、がんばってくれている人がいるんだ。そういう人の信心が、私は本物だと思っている」
若き日の池田から薫陶を受けた文京支部の人々は、東京や神奈川にとどまらず、各地に弘教の輪を広げていく。その舞台の一つ──1956年(昭和31年)10月から翌年1月にかけて、当時の全国32支部の大半から派遣メンバーが集った場所がある。そこで初めて池田に出会った人も多かった。
本州の西端、山口県である。