EIKOの気まぐれ闘病日記 -136ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  母一人、息子一人 ①


 「ちとせ旅館」の女将、大川ツネ子にとって、この旅館は人生を賭けた城だった。夫の内田豊は建

築技師として、満州国(現在の中国東北部)の国務院営繕処に配属された。1935年(昭和10

年)、地方出張を終えて新京(現在の長春)に戻る途中、密告により「匪賊(ひぞく)」に拘束され、身

代金を要求された。

「父は『2歳になる幼い一人息子のために、支払いに応じてほしい』と満州国へ手紙を出したのです

が、聞き入れられなかったようです。1年半後父のものと思われる遺体が見つかりました」(長男の

壽太郎。東京・世田谷区、副支部長)。

 

 ツネ子は幼い壽太郎を抱えて実家のある山口県に引き揚げた。「息子が大学卒業まで支給する」

と満州国が約束した援助金も、小学5年の時に途絶えた。「息子を無事に育てあげる」。それがツネ

子の人生のすべてになった。


 軍港があって人が集まる徳山に居を構え、小料理屋を始めた。酒の統制が強くなり、1944年(昭

和19年)に旅館業に切り替えた。その直後、空襲で旅館が全焼。敗戦を前後して二度の移転を経

て、やっと再建したのが「ちとせ旅館」だった。

 24年振りに待望のパンダの赤ちゃんが、生後6日目にして死んでしま


いましたねしょぼん


 母乳が器官に入ってしまい、肺炎を起こしてしまったようですしょぼん


 生まれたばかりの赤ちゃんパンダは、生存率が低いようですねしょぼん


 来年また可愛いパンダの赤ちゃんが生まれることを祈りますドキドキ

   台所での出会い ②


 居合わせた森下日出子(周南市、婦人部副本部長)。中学生だった。

「私が3歳の時、海軍だった父が戦病死し、母は淡路島から徳山に後妻として嫁ぎました。連れ子の私は義父と折り合いが悪く、心の底から悩んでいました」。「ちとせ旅館」で、目の見えない娘を連れた女性を励ます池田の声が「心に突き刺さった」と語る。「私も幸せになりたい」──翌年、母の奈津子一緒に信心を始めた。後年、義父も入会している。


 児玉シズは旅館の休憩時間に唱題を重ねた。

「眠たい目をこすりこすり、御本尊様にどうか、子どもを治してください。私も人並みに幸せにしてくださいと真剣に祈ったものです」。「青年部のボロバイク」の後ろに乗せてもらい、折伏に走った。霜が降りてバイクが動かなくなり、歩いて帰ったこともあった。

「法華経を信ずる人は冬のごとし 冬は必ず春となる」(妙一尼御前消息)。日蓮のこと一節を心の拠り所にした。


 成人した鐵兵は、やがて啓子と結婚。紳士服仕立て店を開業した。池田との出会いから23年後の秋──孫の秀幸が生まれた。シズは池田に名付け親を頼んだ。紹介してきた手記の多くは、その年に書かれたものである。末尾には力強い筆致で「今は何の心配もなく、毎日が楽しく・・・・・・池田先生は『何があっても20年、地道に頑張っていきなさい。必ず幸せになりますよ』と言われていますが、まったく其の通りだと思います」と記されいた。1992年(平成4年)、児玉シズは74年の生涯を終えた。

  台所での出会い ①


 児玉シズが残した幾つかの手記を見せてもらった。

「私の結婚生活は本当にみじめなものでした」という一文から始まっていた。1917年(大正6年)、鹿児島に生まれた。村から一人だけ女学校にも行き、何不自由ない青春だったが、嫁ぎ先で暗転した。

「飲む、打つ、買うの三拍子」が揃った夫だった。月給は酒代に費やし、芸者遊びに狂い、見知らぬ女性を自宅に連れ込んだ。「地獄のような毎日」が続いた。

「次男(=鐵兵)を連れて家を出るはめになりました。子供連れの私に、働く場所があるはずがありません。結局、遠縁にあたる親類の旅館に住み込み、女中(仲居)として朝早くから夜遅くまで、台所に這いつくばって、働き続ける毎日でした」。

 苦労は重なる。三歳の鐵兵が40度超の高熱に襲われ、医師から小児麻痺と告げられた。

「お先、真っ暗です。生きて何の幸せがあろう。いっそのこと、子どもを道連れに死んでしまおうと何度思ったかわかりません」。そのたびに子どもの可愛い寝顔を見た。死ねなかった。仲居として仕事に精を出した。


 鐵兵が12歳の秋、11月──シズが働いていた「ちとせ旅館」(山口県徳山市=現・周南市)に、若い人達が連泊した。「創価学会」という。聞いたことのない団体だった。シズは女将の大川ツネ子らと台所で夕食の鰻を焼いていた。夕方、一人の青年があいさつに来た。

「おかみさん、良いにおいがしますね、大勢来て、大変御迷惑をおかけして、すみませんね。よろしくお願いいたしますと、深々と頭を下げてあいさつをされました」。

 「驚いたのは私たちの方です。一般のお客さんは、自分の部屋に女将を呼ぶのが通例です」 「『普通の人とは違うね』とみんなで囁きあったものです」──その青年は前々日に岩国、前日に柳井を訪れ、徳山に着いたばかりの池田だった。仕事が一段落したツネ子とシズは、誘われていた座談会に参加した。二人は池田との対話を経て、その日から信心を始めた。

会員の少ない山口の「開拓」を──

 

「七五万世帯の弘教」を生涯の願業とする第二代会長・戸田城聖の思いを胸に


昭和31年秋、全国の支部の代表が山口へ。


池田は翌年1月までに三度、二十二日間入り、総司令として県下八都市を駆け、指揮を執る。


苦悩の渦中にあった人々が妙法に巡り合い、再起する──その幾多のドラマを追う。


  「何があっても二十年、地道に」


 「携帯電話が鳴ったのは、東京から広島に帰る車中でした」。児玉秀幸(広島、圏男子部長)は母の啓子(同、支部副婦人部長)と新幹線に乗っていた。急いで座席からデッキに行き、電話に出た。それは池田大作からの伝言だった。

「数時間前に、母と東京の学会本部を訪れたところでした」(秀幸)。

 きっかけは、発刊されたばかりの創価学会の月刊誌「大白蓮華」(2010年2月号)だった。同号の巻頭言で池田は、「山口開拓指導」と呼ばれている歴史に触れた。

 「まだ会館がない時代である。宿泊の旅館を拠点とさせていただいた。お世話になる主人や従業員の方々に、私は礼を尽くして接した。その中から入会した人も少なくない。

 

この時、私が折伏一人の婦人は、生涯で百世帯を超える弘教をされ・・・・・お孫さんが創価大学に学ばれ、立派なリーダーとして活躍する近況も、嬉しく伺っている」──この「一人の婦人」が秀幸の祖母、児玉シズである。一読して驚いた秀幸は、母とともに感謝の手紙を書き、上京して池田のもとに届けた。池田の伝言は、その手紙に対する返礼だった。

「君の活躍がうれしい、という趣旨でした。その日のうちに、しかも広島に戻る前に伝言を頂くなんて想像もしていませんでした」。