EIKOの気まぐれ闘病日記 -135ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 連載を楽しみに読んでくださる皆さん、ペタやコメントくださる皆さん


 いつもありがとうございますm(__)m


 このブログは一応”闘病日記”なので、最近の状態を書きます。


 最近は自分の思うところ、ちょっと躁状態にある気がしますアップ


 躁状態を自分で認識するのはとても難しいことなのですが、ネットショ


ッピングで、”富士通の訳ありパソコン”を買ってしまいましたガーン


 訳あり商品なので返品不可なのです。


 明日パソコンが届くので、両親に怒られないか今から心配です。


 担当医曰く、躁状態になると”金使いが荒くなる”そうです。


 後は、深夜までなにか作業をしてしまったり等。


 医師は”必ず治る”といいますが、うつ病から躁うつ病になると治りが


 遅い気がします。


 5年前から医師から車の運転をしないように言われています。


 私としては早く病気を治して、大好きな車の運転がしたいです。

 憂いを消す絵葉書 ①


 「初秋の日差しが強烈で、汗ばむような暑さのなか・・・・・・宇部駅に着きました。出迎える人とてない未知の町でした」(冨岡と志の手記。大阪・船場支部)。


船場支部の斎藤きみ子は鈍行列車で小郡駅(現・新山口駅)から宇部行きに乗り継いだ。赤ん坊を背負い、右手に御書(日蓮の遺文集)の入った袋、左手におむつの入った袋を持っていた。


「一生の原点になりました」と語る岩下登志子(宮城、支部副婦人部長)。

ハガキ20枚、100円」 「中央旅館、1000円」等、丹念なメモを残している。


 原猛は福岡・柳川の地区部長だった。1902年(明治35年)生まれで当時54歳。張り切って防府や徳山を担当した。三田尻駅(現・防府駅)で「20歳を少し過ぎたと思われる女子部の人と判る二人」(原の手記)から声をかけられた。

「おじさん、どこから来られたのですか、私たちは北海道から来ました」。原は「九州からです」と答え、「お互いがんばりましょう」と声をかけて別れた。


 はるばる北海道から山口まで赴いた彼女たちの健気さに、原は感動した。後年、「(彼女たちの)長途多々の日数と多額の費用を使い、未知の地で喜々として戦っておられる純粋強情な信心」を、自らの「反省の亀鑑(きかん)(=手本)」にしたと綴っている。

  「最も愛する季節よ」


 「昭和31年、学会は年末までに50万世帯の達成を目指していました。大学4年だった私も『山口開拓指導』に参加しました。岩国駅で仙台支部の知人を見かけ、本当に全国から来ているんだなあと驚きました」(小林宏。東京・文京総区総主事)

 池田の師・戸田城聖が「七五万世帯の弘教」という大目標を掲げて5年半。誰の目にも不可能と思えた「山の頂(いただき)」が、ついに視界に入り始めていた。

 

全国を見渡した時、特に学会の少ない地域の一つが山口県だった。池田の日記。

「気温32度に昇る。残暑、厳し。先生(=戸田城聖)と種々懇談・・・・・来月より、山口県、前面折伏の指示あり。小生、総指令・・・・・。義経の如く、晋作の如く戦うか」(1956年9月5日)。28歳。相変わらず体調は優れない。

「いつも疲れる。疲れが出るのか、疲れていくのか、自分ではわからぬ」(同7月22日)。

「朝疲れて起きることできず。怠慢か。自分自身との戦闘──自分自身の弁解・・・・秋晴れの、爽快な季節が待ち遠しい。最も愛する季節よ」(同9月10日)。

 

文京支部だった樋田敏子。

「(戸田先生が)実に簡潔明瞭に、山口指導の意義を教えてくださった」と記している。

「山口は預貯金高は少ない。逆に薬の売上高は高い。しかも学会員は最少である。だから幸せの種をまくのだ」──派遣メンバーも似たような境遇だった。総責任者の池田自身、旅費の捻出に苦しんだ。

「私は、皆が借金をしたり、質屋に行き、旅費や滞在費を工面してきていただけに心配であった。私自身も、最期の旅費として家の電話債券を売って活動費にあてた。だれもかれも経済的な余裕もなく折伏戦に突入したのである」(『忘れ得ぬ同志』)。

 池田の日程は10月、11月、翌年1月の計3回、22日間。行き先は下関、防府、山口、岩国、柳井、徳山、宇部、萩(訪問順)の8都市で、ほとんどの都市に2度、3度と再訪した。現地で行動をともにする派遣メンバーのほとんどが、信心を始めて3年も経たない人たちだった。



  母一人、息子一人 ③


 1956年(昭和31年)

から翌年にかけて行われた「山口闘争開拓指導」。絶望の淵に立たされていた人々が再生の一歩を踏み出す、無数のドラマが生まれた。それは「青年の譜」(1970年発表)に綴られた、


「あの地にも この地にも


あの職場にも この家庭にも


友は戦い 友は勝った


この素顔の歓喜(よろこび)は 万波とうねり


はや 第三の勢力となる」


という一節を凝縮したような数ヶ月だった。

 山口創価学会の婦人部が足かけ4年をかけて1000人以上に取材した証言がある。それらを手がかりに、あらためて当時の群像を追った。

 

   母一人、息子一人 ②


 じつは大川は、池田と出会う前、児玉シズら仲居たちと打ち合わせていた。

「お客さんが信仰の話をしてきたら『よく考えてご返事します』と答えて、その場を去ろう」。

「義母の男勝りの性格は地元でも有名で、滅多なことでは左右されない人でした」(義娘の典子。

同、地区副婦人部長)。しかし、台所で池田から声をかけられ、「あんな奇特な人は見たことがな

い。あの信心には何かある」と感心した。おそるおそる行った座談会。その池田が中心者だった。

 「女将さんも、何か悩みがおありなのではありませんか」と尋ねられ、ツネ子は「息子が来春、山口

大学を卒業するのですが、まだ就職が決まっていないんです」と自然に悩みを口にしていた。

 「母は絶対に悩みを言うまいと決めていたのですが、先生から『子どもさんはお一人ですか』と尋

ねられ、『一人息子です。夫がおりませんもので、私が一人で育ててきました』と、半生の苦労を語っ

たようです」。池田は、その苦労が報われ、必ず幸せになれる道がこの仏法である、と語った。

「『幸せになりませんか。私と一緒に信心をしましょう』という先生の一言に、母はその場で『やりま

す』と言いました」(壽太郎)。


 驚いたのは、何を言われても断るつもりでいた児玉シズである。

「あっという間の出来事でした」 「二人とも先生の魅力に惹かれて決意しました」と手記に書き残し

ている。

 それから壽太郎宛ての電報が届いた。鉄鋼会社からの採用通知だった。理不尽に夫を奪われ、

満州から引き揚げて、ちょうど20年が経っていた。

「一度も泣いたことのない母が、電報を手に涙こぼしました。母の戦争は、先生と出会った1週間後

の、あの日に終わったのだと思います」(壽太郎)。