EIKOの気まぐれ闘病日記 -134ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   「凡夫即仏なり」 ③


 橋本政信(京都支部)は御書に「諸法実相抄」(10月10日)、「妙一尼御前御返事」(同11日)、「転


重軽受法門」(同12日)、「経王殿御返事」(同13日)、「日巌尼御前御返事」(同)等、池田が講義し


た日付を記していた。日記に残した人もいた。


 「10月14日日曜日晴れ/東陽館(下関)にて御書講義をきく。船守弥三郎許御書」 「早速、折伏出


来る・・・・・・いつもの倍の成果を挙ぐ」(中村勝)。


 中村は特に印象に残った「凡夫即仏なり・仏即凡夫なり」の一節を写し、「有難き一節」と記している。

 何の変哲もない「凡夫」が、つまり他でもない私自身が「仏」である。これこそが本来の仏法なのだ


──学会に入ったばかりの人も、まだ日の浅い派遣メンバーも、池田の講義を通し、それまで漠然


と持っていた「仏」や「宗教」のイメージが音を立てて変わっていった。


    「凡夫即仏なり」 ②


 小岩支部から参加した臼井登志恵(東京・北総区婦人部主事)。宇部で弘教が進まず、肩を落としていた。

「下関に戻って池田先生に報告する時に悔し涙がポロポロこぼれちゃいまして・・・・・」。

池田は「折伏は難事中の難事だ。だから功徳もある。そう簡単にできるものじゃないよ」と励ました。そして「窓を開けてごらん」と言った。


 「満天の星空でした」(臼井)。池田は空を指さして語った。

「頭の円(まど)かなるは天に象(かたど)り、と言うんだ」。「人間の体は一個の小宇宙である」と説いた仏典である。頭の丸さは「天」になぞらえる。両目は「太陽と月」。髪は「星」。眉は「北斗七星」。息は「風」。お腹は温かいので春と夏、背中は冷たく硬いので秋と冬・・・・・・。


 池田は「大自然の生命と私たちの生命は一体だよ。宇宙即我、我即宇宙だ。結論は妙法にある」 「宇宙を語る時代がすぐ来るよ」と語った。

「貧乏だった私は、宇宙について考えることなんてなかった。御書でこの御文を見つけた時は本当にうれしかったです。壮大な生命論を聞いた感動は、81歳の今も消えません。翌日、宇部で初めての折伏ができて先生に報告でき、今度はうれし涙がこぼれました」。

 

下関に来た京都支部の派遣隊には、夫を亡くし、3人の子どもを抱えた婦人部員がいた。池田は「相手がどんなに身分が低くても、仏法について少しでも自分より優れ、智慧のある人ならば、法華経について学んでいきなさい」(松野殿御返事、趣意)という御書の一節を引き、「信心に真面目なお母さんが大切なんです。その人が誰よりも求道心のある勝利者なんですよ」と励ました。

  「凡夫即仏なり」 ①


 池田の訪れる地は、弘教の現場になると同時に、全国から集まったリーダーを育成する現場にも

なった。指導は常に「御書」から始まった。


 岡山支部幹事として参加した則武敬一。戦前は同盟通信社の記者だった。軍に召集され、南方で

肺結核になり、病院で敗戦を迎えた。健康になりたい一心で1955年(昭和30年)に入会。1年後、宇

部の「松屋旅館」で池田の御書講義(生死一大事血脈抄)を聞き、それまでの宗教観が覆された。

池田は「我々もまた法華経に説かれる『地涌の菩薩』の一人です」と強調した。地涌の菩薩──仏

との約束を実現する、最重要の菩薩である。

「信心とは自分が幸福で、功徳があればよいと思っていた私の考えは、どこかへ吹き飛んでしまった」(則武の手記)。

「父は生前、初めて先生と出会った山口の地で『足が棒になるまで歩いた』と語っていました」(長男

の隆。岡山・副本部長)。


 岡山地区の地区部長だった原渕祥光(岡山旭日総県主事)。

「毎朝の講義が楽しみで仕方なかった。最初は地涌の菩薩と言われても、まさか自分が、と思いました」と笑って語る。

「具体的には『組織の長をやって、一番大変な組織で苦労するのです。その一念が功徳になる』と教わりました」。

    憂いを消す絵葉書 ③


 各地に残る葉書や手紙は、動きの激しさを物語る。仙台支部長だった鎌田忠吉。留守役を引き受けた。派遣隊からの便りが自宅に何通も届いた。

「今日午後三時 池田室長来岩。激励を受け、闘志を燃やしております」という文言も見える。

「地元の私達も戦おうと奮い立ったものです」(鎌田の手記)。

 

 文京支部の萩野勘次。前号で紹介した名物地区部長である。墨屋の仕事を妻に任せ、岩国に駆けつけた。池田が声をかけた。「『萩野さん、仕事は大丈夫かな』というと『なーに、女房がいますから』と、屈託がない。私(=池田)のほうが心配になってきて、アキノさん(=萩野の妻)に岩国からはがきを出した」(『忘れ得ぬ同志』という微笑ましい1コマもあった。


 「家庭持ちの婦人が10日も留守にしたら家族が不自由だ。早く帰ってあげなさい」と池田に諭されたのは、徳山に来た角屋マサノたち5人である。住屋は原爆症と闘いながら広島の草創期を築いた一人だ。家族の了解を得て来ました、目標を達成するまでは、と頑張った。

 「そこまで肝(はら)を決めているならやりなさいといわれ、じゃ、私から御主人に手紙を書いてあげようと、その場でハガキを書いてくださった」と語り残している。

「・・・・・留守、何かと不自由と存じますが、よろしく頼みます。使命を果たし早急に帰宅する様 申し居きました」(角屋丈夫宛て)。

 同じ場で書かれた1枚。「お葉書で失礼致します。奥様 元気で徳山にて頑張って居られます・・・・・山口の廣布(こうふ)の夜明です」(中村二三枝=広島、婦人部副本部長=の夫、勉宛)。

  憂いを消す絵葉書 ②


 鶴見支部の責任者だった松尾正吉。岩国、徳山、宇部の三年に絞り、緻密に予定を立てて臨んだ。彼の残した当時のメモを見てみると、起床6時半、朝食7時半、勤行8時、講義9時、10時から各地に出発、という日課になっている。

 

松尾たちは岩国駅で池田を出迎え、「小池旅館」に到着した。まず池田から指導があるものと思っていた。ところが「先生はお座りになるとすぐ『留守宅に手紙を書いてあげよう』と、駅で準備したと思われる山陽の地の絵はがきを出された」(松尾の手記)。瀬戸内海国立公園、後楽園の二色が岡・・・・・目の前に何枚もの鮮やかな絵葉書が並んだ。

 「いいのを1枚ずつとりなさい」。池田は「しっかり戦うには憂いがあってはならない」と言い、住所、家族の名前を聞いて次々に便りを書き、すぐに投函した。思いも寄らない心配りだった。松尾の妻には「ご主人は山陽の地で白馬に乗って指揮をとっております。安心して留守をお守りください。岩国にて 池田大作」と書いて送った。


 「事にあたると、その場だけしか考えなかった」という松尾。

「本当に申しわけない気持ちでいっぱいでした・・・・・わずかの時間だったかもしれませんが、その光景はスロービデオのようにゆっくりと動き、胸に焼き付いて離れません。私はこのときに思いました・・・・・掛け声や号令なんかじゃない。どこまでも御本尊への祈りを根本として、一人の友を思いやる誠実こそが最大事、と」(松尾の手記)。

後年、松尾は支部長、副理事長、方面参与などを歴任する。

「山口は第二のふるさと」と語り、生涯、友人や同志との「はがき交流」を欠かさなかった。