EIKOの気まぐれ闘病日記 -133ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

   「生きた宗教がある」 ③


 「その頃、徳山ではワクチン不足で脳性小児麻痺が流行し、私も生後間もなく発症しました」。山縣純一(周南市、副本部長)が振り返る。

「後遺症で右手、左足、顔面が動かず、両親は医師から『一生治らないでしょう』と宣告されたそうです」。

 当時、30歳の後藤幸子(大阪、都島大城区婦人部主事)、梅田支部の派遣隊として徳山市を回っていた。

「人家はまばらで、あと一軒、あと一軒と歩きました」。夜のとばりが降り、急に肌寒くなった。題目を唱え、山を越え、ようやく麓の一軒家にたどり着いた。


「囲炉裏の横に、体の不自由な男の子が寝ていました」──5歳の純一である。

「山縣さんのご両親は、『今までいろいろな宗教をしてきたが、この通りだ』と男の子を指さして『帰れ』と言われました」。後藤は「妙法という大良薬がある」 「宿命を変える方法がある」と、思い出す限りの御書を通して語った。

「そこまで言うのならもう一度、その学会を信じてみよう」。すやすやと純一が眠る囲炉裏端で、両親は入会を決意した。

 

「飛ぶように『ちとせ旅館』に戻った」という後藤。

「すでにみんな眠っていました。池田先生お一人が、静かに唱題をして、遅くなった私たちの帰りを待っておられました。その姿を目にした瞬間、涙がどーっと出てきて・・・・・先生の同志を思う真心と、この闘争に懸ける一念の深さを知り『先生の祈りに支えられていたんや』と。報告の最中も涙が止まらす、先生は『その子の病は必ず治るよ。よく頑張ったね。早く休んで』とねぎらってくださいました。翌朝、先生はもう次の拠点に向かわれていました」。


 純一の父悟は山口県下を弘教に歩いた。

「実家が農家で、学会に入ったら村八分です。田植えや稲刈りの時に人手が足りなくても『もやい』(共同作業)を手伝ってもらえなくなった」(純一)。学校の友だちが親から「あの子と遊んじゃいけないよ」と言われているのを見かけたこともあった。

 病は入会から数年で快方に向かった。

「千葉の学生部時代に先生とお会いする機会がありました。いくつかの闘病も乗り越えました。何事にも動じない妻に支えられて、一歩ずつ歩んでこられました」と語る純一。今は銀行員として働いている。

  「生きた宗教がある」 ②


 「あの日、夫は『すごい青年が来てくれた。すごい話をしてくれた』と興奮して東陽館から帰ってきましたよ」。104歳になる内山照代(下関市、婦人部副本部長)。今も眼鏡なしで毎日、「聖教新聞」を読む。

「下関中を歩いて、下駄がペチャンコになりました。学会活動なら、どんなところでも歩きました」。満面の笑みで語った。

 1908年(明治41年)に生まれた照代は、20歳まで東京の大森に住み、関東大震災にも遭遇した。結婚後、下関へ。心臓と胃が悪く、寝込む日が多かった。

「手伝いに行っていた染物屋さんで『生きた宗教がある』と聞きました。48歳の春です。唐戸から船に乗って、門司の寺で御本尊をいただきました」。

 長女の奈々子(同、支部副婦人部長)。

「両親が信心を始めたのは昭和31年の3月です。当時、父の光麿は郵便局に勤め、労働運動に熱中し、全逓労組の下関の書記長をしていました」と振り返る。光麿は妻の照代から話を聞き、信心を始めたが熱心ではなかった。池田と出会ったのはその7ヶ月後だった。翌年、光麿は下関地区の初代地区部長に就任した。


 内山照代を折伏したのは今年86歳になる藤田藤枝(下関圏婦人部主事)である。夫の和男、小学2年の長男、5歳の長女の家族4人で東陽館に行き、池田の講義を聞いた。

「そのころ住んでいた家を、夫は『ニワトリ小屋を改造した家だ』と言っていました」と笑う。

「履ものもぼろく着るもの粗末な私たちに、今はどん底におるけれども10年、20年と信心を貫けば、必ず見違えるようになると真剣に言われました。それがうれしかった」。

 1年前から信心に励んでいた藤枝。

「頭痛がひどく、鉢巻をしないと頭が割れそうだった」が、いつしか薬も医者も要らなくなった。バス運転手の和男は酒好きで悩んでいたが、元気になる妻を見て御本尊の前に座るようになった。藤枝は「お猪口がお数珠に変わった」と喜んだ。


「夫の酒乱や子どもの病気で、信心しても自分たちのことで精いっぱいでした。東陽館で先生と出会って変わりました。『自分のためだけの信心ではない』と教わったんです。翌日から、派遣メンバーの人たちと一緒に弘教に走り出しました」。

   「生きた宗教がある」 ①


 下関では、半世紀以上経った今も、何人もの人が異句同音に「池田先生から教わった”天子

の 襁褓(むつき)”の一節が忘れられない」と語る。56歳の日蓮が、富木常忍という門下に送った「四信五品抄」の一節である。

 同抄には「法華経を少しも理解せずに題目を唱える弟子は、どのような位にあるのか」が説かれ

ている。日蓮はこう断言した。

「国中の人々よ、私の弟子を軽んじてはならぬ。過去は無量の仏に仕えた大菩薩である。未来は必

ず莫大な功徳を備える。たとえば皇帝が幼くて、おむつに包まれ(=天使の襁褓)、大竜が生まれた

ばかりのようなものである。決して蔑んではならぬ」(要旨)。


池田はこの一節を通して「あなたがどれぼど尊い存在なのか」を訴えたのだ。

 この講義が行われた「東陽館」の目と鼻の先に、幕末が生んだ風雲児の一人、高杉晋作が「奇兵

隊」を結成した地がある。(白石正一宅跡)。池田が「晋作の如く」と決意して臨んだ第一歩は、なん

の地位も肩書きもなく、ただ幸せを欲し集まった人々に、「生きる希望」を送る御書講義から始まっ

た。その挑戦は、身分を差別せず、集まった全員を同志として遇した奇兵隊にも似ていた。

 ブログを読んでくださる皆さん、ペタ、コメントをくださ


る皆さん、いつもありがとうございますm(__)m


 今日は診察日でしたバス


息子が独立してから早4ヶ月・・・・・・。


両親と3人の生活が定着しつつあるのですが、私は


小さい頃から父親が苦手なのですしょぼん


 今まで家庭の中で父の笑顔をみたことがありません。


 神経質で完璧主義者な父に対して、私は子供の頃


は敬語を使って話すくらい苦手でした。


 小学生の頃は、父に気を使い、学校ではいじめに


あい、ほっとする時間はあまりありませんでした。


 そのせいか、だんだんと相手が私のことをどう思っ


ているか、こういうことをしたら相手がどう思うか、と


思ってしまい、とても気疲れするようになりました。


相手の気持ちを考え過ぎてしまいどっと疲れてしま


うのです。


 今日も薬は変更なしでしたが、この性格を治さない


と、病気は治らない気がします。


 この病気は「無理をしない」ことが一番なので、私


なりにマイペースでやっていこうと思います。