「生きた宗教がある」 ③
「その頃、徳山ではワクチン不足で脳性小児麻痺が流行し、私も生後間もなく発症しました」。山縣純一(周南市、副本部長)が振り返る。
「後遺症で右手、左足、顔面が動かず、両親は医師から『一生治らないでしょう』と宣告されたそうです」。
当時、30歳の後藤幸子(大阪、都島大城区婦人部主事)、梅田支部の派遣隊として徳山市を回っていた。
「人家はまばらで、あと一軒、あと一軒と歩きました」。夜のとばりが降り、急に肌寒くなった。題目を唱え、山を越え、ようやく麓の一軒家にたどり着いた。
「囲炉裏の横に、体の不自由な男の子が寝ていました」──5歳の純一である。
「山縣さんのご両親は、『今までいろいろな宗教をしてきたが、この通りだ』と男の子を指さして『帰れ』と言われました」。後藤は「妙法という大良薬がある」 「宿命を変える方法がある」と、思い出す限りの御書を通して語った。
「そこまで言うのならもう一度、その学会を信じてみよう」。すやすやと純一が眠る囲炉裏端で、両親は入会を決意した。
「飛ぶように『ちとせ旅館』に戻った」という後藤。
「すでにみんな眠っていました。池田先生お一人が、静かに唱題をして、遅くなった私たちの帰りを待っておられました。その姿を目にした瞬間、涙がどーっと出てきて・・・・・先生の同志を思う真心と、この闘争に懸ける一念の深さを知り『先生の祈りに支えられていたんや』と。報告の最中も涙が止まらす、先生は『その子の病は必ず治るよ。よく頑張ったね。早く休んで』とねぎらってくださいました。翌朝、先生はもう次の拠点に向かわれていました」。
純一の父悟は山口県下を弘教に歩いた。
「実家が農家で、学会に入ったら村八分です。田植えや稲刈りの時に人手が足りなくても『もやい』(共同作業)を手伝ってもらえなくなった」(純一)。学校の友だちが親から「あの子と遊んじゃいけないよ」と言われているのを見かけたこともあった。
病は入会から数年で快方に向かった。
「千葉の学生部時代に先生とお会いする機会がありました。いくつかの闘病も乗り越えました。何事にも動じない妻に支えられて、一歩ずつ歩んでこられました」と語る純一。今は銀行員として働いている。