「生きた宗教がある」 ②
「あの日、夫は『すごい青年が来てくれた。すごい話をしてくれた』と興奮して東陽館から帰ってきましたよ」。104歳になる内山照代(下関市、婦人部副本部長)。今も眼鏡なしで毎日、「聖教新聞」を読む。
「下関中を歩いて、下駄がペチャンコになりました。学会活動なら、どんなところでも歩きました」。満面の笑みで語った。
1908年(明治41年)に生まれた照代は、20歳まで東京の大森に住み、関東大震災にも遭遇した。結婚後、下関へ。心臓と胃が悪く、寝込む日が多かった。
「手伝いに行っていた染物屋さんで『生きた宗教がある』と聞きました。48歳の春です。唐戸から船に乗って、門司の寺で御本尊をいただきました」。
長女の奈々子(同、支部副婦人部長)。
「両親が信心を始めたのは昭和31年の3月です。当時、父の光麿は郵便局に勤め、労働運動に熱中し、全逓労組の下関の書記長をしていました」と振り返る。光麿は妻の照代から話を聞き、信心を始めたが熱心ではなかった。池田と出会ったのはその7ヶ月後だった。翌年、光麿は下関地区の初代地区部長に就任した。
内山照代を折伏したのは今年86歳になる藤田藤枝(下関圏婦人部主事)である。夫の和男、小学2年の長男、5歳の長女の家族4人で東陽館に行き、池田の講義を聞いた。
「そのころ住んでいた家を、夫は『ニワトリ小屋を改造した家だ』と言っていました」と笑う。
「履ものもぼろく着るもの粗末な私たちに、今はどん底におるけれども10年、20年と信心を貫けば、必ず見違えるようになると真剣に言われました。それがうれしかった」。
1年前から信心に励んでいた藤枝。
「頭痛がひどく、鉢巻をしないと頭が割れそうだった」が、いつしか薬も医者も要らなくなった。バス運転手の和男は酒好きで悩んでいたが、元気になる妻を見て御本尊の前に座るようになった。藤枝は「お猪口がお数珠に変わった」と喜んだ。
「夫の酒乱や子どもの病気で、信心しても自分たちのことで精いっぱいでした。東陽館で先生と出会って変わりました。『自分のためだけの信心ではない』と教わったんです。翌日から、派遣メンバーの人たちと一緒に弘教に走り出しました」。