EIKOの気まぐれ闘病日記 -132ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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   出会いの”種” ③


 「出会いの種」が何年も経って花開く場合もある。81歳の藤澤トミ子(山口市、副しらゆり長)。山口市内の「齊藤(さいとう)旅館」に嫁入りしていた。池田は同旅館を二度訪れ、その時、女将の重村マツエが信心を始めている。藤澤は池田との出会いの34年後(1990年)に入会した。

 

「先生が二度目に齊藤旅館に来られた時、三歳になる私の長男が塗り絵と飴をもらったんです。息子は絵を描くのが好きでした。『どこで知ったのだろう』と驚きましたが、最初に泊まられた時、義母のマツエが話したのかもしれません。今から思えばあの多忙ななか、学会員でもない一従業員の子供にまで心配りをされていたことに感嘆します」

 

”出会わない出会い”もあった。小学校教師だった岸本ミヤエは弟に折伏された。岩国の旧・玖珂(くが)郡高森町に住んでいた。結核を病んで休職。

「池田先生が、市内の松秀食堂に来られると聞き、駆けつけたが、お会いできませんでした」(岸本の手記)。数日後、縦1メートルを超える洋紙に、墨痕鮮やかな揮毫が届いた。


「山陽広布の黎明の聖鐘(かね)を打とう 昭和31年11月19日」。「高森の人へ」という池田の伝言が添えられていた。


三度の山口指導で、池田は何でも激励の筆を走らせた。中心都市ではなく、辺地で信心に励む、会ったことのない一女性に送ったこの揮毫が、最も大きなものとなった。

 しばらくして岸本は復職。ある教え子の母は、岸本が担当した授業参観の思い出を「中國新聞」(1973年8月3日付)に投稿した。その母親は耳が聞こえず、授業参観がいつも苦痛だった。

「懇談のさいに筆記していただいたのは初めてで・・・・・・一校に一人でも岸本先生のように筆記してくださる方がおられたら、聴覚障害者の私どもは、どれほど助かるかしれません」と感謝を綴っている。


  出会いの”種” ②


 「どうせまた、金を巻き上げられるのが関の山だ」と思っていたのは吉井光照(山口池田総県総主事)である。戦前から続く荒物屋の三代目だった。

 1945年(昭和20年)、光照が中学三年の時、父が南京で戦病死した。母のチズ子のもとに5人の子と義母が残された。チズ子は多くの宗教を遍歴した末、福岡支部の吉村七郎から折伏された(1956年10月)。光照もいちおう入会はしたが「手を合わせて題目を唱えるのが嫌でした」と振り返る。

 

 「防府は天満宮の『裸坊祭』が有名です。あの頃は、祭りの三日間だけ働けば1年暮らせるといわれていました」。友人と飲み歩く日々だった。同年11月、市内の「ふみや旅館」で池田と初めて会った。

「『君は何も悩みのない顔をしているね。しかしこの信心に入った以上、とことんまでやってみるんだね』と励まされました。不思議な魅力を感じたんですね。『よし、とことんやろう』と。あの日から1日も勤行を欠かしていません」。

 

「私が吉井さんと飲み歩いた悪友です」と笑ったのは植木三夫である。

「祖父の時代、藩主の毛利家と一緒に防府に移り住んだ」という大きなかまぼこ屋に生まれた。吉井の妻、直子(総山口婦人部主事)から「何でも叶う」と言われ入会した。防府の「浴永旅館」で池田に声をかけられた。

「『いい青年がいるじゃないか』 『信心すれば立派な人間になれるよ』と言われて、心を見抜かれたのかと思った」という。

 

戦争中、学校の先生から「お国のたまに死になさい」と教わった。16歳で予科練の松山航空隊に入り、鹿児島の鹿屋で特攻隊の訓練を受けたが、栄養失調で病院に送られた。戦後も暮らしは裕福だった。しかし気が晴れなかった。

「心のどこかで立派な人間になりたいと思っていた。そこに先生の一言が響いたんです」。


   出会いの”種” ①


 93歳になる西村シズ(京都東総県婦人部主事)。

「山口では、新しい人を先生のもとに連れて行くのが楽しくて仕方ありませんでした」と語る。各地で多種多様な出会いが生まれた。池田たちの強行軍は、一人、また一人と「心を変える」旅だった。

 下関の岩本憲治。1956年(昭和31年)の12月に入会し、翌年1月に池田の前で班長の任命を受けた。

「賭け事が好きだった父は、自分を変えたいと思って信心を始めました。先生に会った日、『すごい人に会ってきたぞ』 『日本一の氷屋になりなさいと言われた』と感激して母に語ったそうです」(長男の隆雄。山口圏副圏長)。

 

池田の講義に感激した妻から「信心しなくていいから、一度でいいから会ってください」と請われ、池田の気迫に圧倒されて入会した壮年もいた。佐川一義(岩国圏主事)は、病みつきになっていた夜釣りに行くからと抵抗した。妻の貞子(岩国、婦人部副本部長)に肝心の釣道具一式を取り上げられ、「ぶんなぐってやりたい気持ち」で「小池旅館」の座談会に向かい、池田と出会った。

「夜に、家に帰ってから、その感激を火付け役の家内が辟易するまで、興奮して語ったことを記憶している」(佐川の手記)。


 柳内で写真屋をしていた平本勝。

「記念写真を撮ってほしい」という妻の伝言で「開作屋旅館」に出かけた(1956年11月)。

「二階に上がると若い人が何か講義していました。その方が池田先生でした」(平本の手記)。妻のヤエ子(柳内圏婦人部主事)は、夫が信心に反対していることを池田に相談した。

「写真を撮ってもらおう。それならご主人に来てもらって話もできるでしょう」。

 勝は池田に「紙に書かれたものを拝んで、どうして功徳があるのか」と食ってかかった。池田は「千円札をあなたは恋しく思うでしょう」と答えた。「それは千円札に力があることを知っているからです。御本尊様も同じです。あなたには読めないが、どんな人も幸せにすると書かれてある」。

2カ月後、勝は信心を始めた。勝るが撮った写真は当時を知る貴重な一枚になった。

  「真剣さは形に出る」 ②


 池田たちが泊まる下関の東陽館を予約したのは、男子部だった嶋田耕である。下関漁港の競り

子で、午前2時に起きる生活だった。寝台急行「天草」で到着した池田を、父とともに出迎えた。耕の

兄は20歳の時、水泳事故で頚椎を損傷し、半身不随に。母のムメ子が信心を始めた。東陽館で池

田は、耕に「青年は金と暇があったらダメになる。まず人格をつくることが一番だ。貧乏は無形の財

産だよ」と語った。

 

試練はその後に訪れた。母のムメ子は早くに病気で亡くなり、耕は信心から離れていった。

「私も義母から信心を教わりました」という妻の淑恵(下関圏副婦人部長)。

「夫は競り子の時は羽振りがよかったのですが、自分で商売を始め、借金をつくり、苦しみ抜きまし

た。先生がおっしゃった『貧乏は無形の財産』という一言を、私も胸に刻んで耐える日々でした」。

 

やがて耕は壮年部でブロック長に復帰した。淑恵はホームヘルパーとして働き家計を支え続け、周

囲から信頼を得て「県介護福祉士会理事」なども務めた。

  「真剣さは形に出る」 ①


 池田は青年部を厳しく育てた。八幡製鉄所で働いていた塩出啓典。福岡の男子部隊長だった。池

田が下関に来ると聞いて東陽館に通った。

「三交代の不規則勤務、電車で一時間以上かかる組織。思うように活動できず、その悩みを素直に

先生に打ち明けました」(塩出の手記)。


 池田は「どんな幹部でも悩む点だよ」と言い、「ところで今、君の鞄の中には何枚くらい葉書が入っているの」と尋ねた。塩出は1枚も持っていなかった。「真剣さは必ず形に出る」。池田は厳しく諭した。

「何としてもメンバーと会いたい、人材を出したい。そう思うなら徹底して手紙や葉書を書けばいいじ

ゃないか。君は悩んでいるのではなく、悩む格好をしているだけだ。時間は与えられるのではなく、

どう作り出すかだよ」。


 埼玉の志木支部から参加した桑名義治(北九州総県主事)。

「明治大学を卒業したばかりでした。1回目は下関、防府、山口、岩国まで行きましたが、先生の話

の内容はほとんど聞いていないんです」。

 理由がある。東陽館の御書講義の後、池田から「先発隊で座談会に行き、私が着くまで担当しな

さい」と言われたのだ。この時、桑名は入会してまだ2年2ヶ月。「とても無理です」と断ろうとした瞬

間、「できない者に僕は頼まない。なんで君は最初からできないと決めてかかるんだ!」と一喝された。

「先生が到着されたら次の拠点に行く連続で、もう必死でした。地元に戻ると『ずいぶん折伏の力が

ついたなあ』と感心されました。最高の訓練でした」。