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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 今日は8月6日。


67年前の8月6日に世界で初めて原子爆弾が投下さ

れた日です。


 その3日後の8月9日には、長崎にも投下されまし


た。


 最後まで降伏しなかった日本に対し、戦争を早く終


わらせるという名の下に投下された原爆。


 3月10日未明の東京大空襲も、アメリカ軍は関東大


震災で、下町の住宅密集地が一番被害が大きかっ


たことを調査し、日本の木造家屋を再現し、どうした


らよく家が燃えるかを実験していたのです。


 そして3月10未明に下町に焼夷弾を投下。


隅田川にかかる言問橋では、逃げようとした人々が


言問橋に集中し逃げられなくなり、言問橋の上で数


万人の人々が焼死しました。


 焼夷弾が投下されたのは、4時間ほどでしたが、10


万人もの人々が犠牲になりました。


 終戦から67年。戦争の悲惨さを伝える語りべの


方々の高齢化が進んでいます。


 私もいつか広島・長崎の被爆資料館や、沖縄のひ


めゆり記念館に行ってみたいと思っています。





  「自分との闘争」 ①


 池田は山口に合計三度赴いた。二度目と三度目の間に、父・子之助(ねのすけ)の訃報に接している(12月10日)。

「正直のところもう少し長生きしてもらいたかった。家を出て以来、息子らしいことは何一つできなか

ったように思えた。ただ一言『自分は長く不動の信仰をしてきたが、大さんのやっている法華経のほ

うが高いようだね』と父がもらしたことが、今なお私の耳朶から離れない」(「私の履歴書」、『池田大作全集』第二十二巻)。

 

同月の日記。「身体の具合悪し。微熱あり・・・・・風邪、腹痛、胸痛等。常楽我浄の人生を、信心を、満喫できるのは、いつの日ぞ」(1956年12月24日)。

「1日中、心身共に不調。悔しい──淋しい。元気になりたし。皆は元気なのに」(同25日)。

「1日中、身体の調子悪し。死を感ず。いやな運命──。信心だ。自己と断固戦うことだ。本年最大

の病苦か。さあ、自分との、信実の闘争を、来年から開始だ。栄えゆく青年になるか、滅びゆく自身に終わるか」(同26日)

 

大阪・梅田支部の北角千佐子は、徳山の「ちとせ旅館」に玉のような汗をかきながら到着した池田を見ている。

「皆が待っているよ。休んではいられない」と言って汗を拭き、座談会場に入っていった池田の様子

を「あのお疲れの体で、今にも倒れそうだった先生の五体から、どうしてあのお声が出てくるのか」と

驚きを込めて書き残している。

 学会は50万世帯を達成し、1957年(昭和32年)が明けた。池田は三度目の山口指導に向かった。

 連日オリンピックの熱戦が続いて、寝不足の方も多


いと思います。


 そんな中、政界の暴れん坊と呼ばれ、ハマコーの


愛称で親しまれた、浜田幸一氏が亡くなりました。


 ハマコーは元はヤクザで、刑務所に入ったこともあ


ります。


そこから身を起こし衆議院選挙7回当選しました。


 私が小学生の頃、なぜかハマコーの選挙のポスタ


ーはいつもピースサインの写真でした。


 ラスベガスのカジノで大負けしたこともありました。


 地元では今でも大きな影響力があります。


 浜田幸一氏のご冥福をお祈りします。m(_ _ )m


 

  「あの家ありて」 ②


 「33歳でした。病気は心臓疾患、肺結核、腎臓結核、卵巣の腫瘍・・・・あとは忘れました」伊藤時

枝(山口池田総県婦人部主事)は笑う。1923年(大正12年)に生まれ、25歳で国鉄の車掌だった政

治と結婚した。二人の子に恵まれたが、内職の無理がたたり、寝たきりになってしまった。

「夫が庭先で、洗濯板を使って洗濯しているところに、堺支部の方が通りかかり、声をかけてくれたんです」。

 ひと月後、弘宅で座談会があると知った。まだ信心していなかった夫に頼み込み、自転車の後ろ

に乗せてもらった。

「先生は私に『あなたは病気ではありませんよ』と言われました。びっくりしました。今から思えば私

は身も心も病人なのだとあきらめていました。先生は、心に巣食う魔を打ち破ってくださったのだと思います」。


伊藤は翌日も夫の自転車の後ろにしがみつき、池田の宿泊先だった「高木屋旅館」に行った。

 這うように階段を上ってきた伊藤に、池田は「病気を治す方法は折伏です」と語った。時枝はタクシ

ーで近所の友人を回り、同じく心臓病で悩んでいた中屋サダ子(萩市、婦人部員)たち3人を「高木

屋旅館」に連れ出した。池田は「私も肺病で、洗面器に血を吐きながら苦しんだんですよ」と語り、三

人全員がその場で入会を決めた。

「その場で先生から『三人のお姉さんになるんですよ』と言われて、急に張り合いが出ました」。

 

4ヵ月後、伊藤の病気は治っていた。通院していた玉木病院の医師も首をかしげた。

「3ヵ月後、大阪の会合で先生に先生に再会し、ご報告しました。涙がぽろぽろ出ちゃって、御礼も

言えませんでした」。

自転車を駆って、萩の街中に「聖教新聞」を配って回った。89歳の今もすたすたと歩く。

「あれ以来、7年前に皮膚がんで一度入院した以外、病気は一切ありません。先日も病院の検診で『どこも異常ないから来なくていい』って言われたんですよ」と笑った。


 弘兼輔の次男、教満が学生時代のことである(1973年)。

「本部幹部会で先生が『今日の参加者は、ひと月に1回でいいから私宛に手紙を書いてください』と言われたことがあり、私はわが家で行われた座談会について書きました」。しばらくして、池田から『御書要文集』が届いた。表紙をめくると、池田の直筆が目に飛び込んできた。


 「懐かしき


   あの家ありて


     今日の指揮」

  「あの家ありて」 ①


 萩でパン製造業を営んでいた弘兼輔(萩市、副本部長)。三ヶ月ほど前に妻のフミエが始めた信

心に大反対で、しばしば妻に手を上げた。長女の小橋教子(山口池田総県副婦人部長)。

「その日、自宅で座談会があると聞いた父は『東京から来る偉い奴に文句を言ってやる』と息巻いた

り、反発して親戚の家に出かけたりしました。母から言われ、必死で父の行方を探しました」。


 「座談会は十畳、八畳、六畳の部屋がほとんど一杯でした」(弘フミエの手記)。外から戻ってきた

教子は「あ、父さんもいる」と驚いた。兼輔は池田の話に釘付けになっていた。

「1分のすきもない迫力・・・・いつしか指導を聞こうと耳をすましている自分に気づきました」(鐘輔の

手記)。「じっと見つめると、大きな波が幾重にも私の生命に押しよせるように感じた」という。

「父は、まるで太陽が昇った感じだったと言っていました」(次男の教満、萩圏長)。

 

池田は弘宅で「僕は体が弱く、やせて顔色も悪かった。それでも東京の街を、大八車を引っ張って

働いた。今では元気いっぱいで、人のために汗を流せるようになりました」と自身の体験を語った。

十数人の新来者のほとんどが入会した。鐘輔は池田に「この家のご主人、どうぞこちらに」と促さ

れ、池田と並んで勤行した。

「小学生だった私がミカン箱に白い紙を貼ってこしらえた質素な仏壇でした」(小橋教子)。フミエたち

が急いで用意した茶碗を鈴に、箸を鈴棒にして、池田は朗々と題目を唱えた。