EIKOの気まぐれ闘病日記 -130ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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さる皆様、いつもありがとうございますm(__)m


 今日で「民衆こそ王者ー池田大作とその時代


青年の譜(4)「山口闘争」の二十二日」の連載が


終了しました。


 次回からは、「青年の譜(5)「夕張炭労事件」(上)」


を連載します。


 どうぞお楽しみに (*^_^*)

  「母を大切に。学会を頼む」 ②


 下関の東陽館に滞在中、池田は「下関に日蓮正宗の寺院があるはずだが、

知っている人はいませんか」と尋ねた。妙宝寺である。案内したのは2カ月前に

入会したばかりの櫛谷(くしたに)君子だった。「お寺とは名のみで、永年の風

雨にさらされて、あばら屋といった風情でした」(櫛谷の手記)。荒れ果てた本堂

で池田は題目を三唱し、「これはひどいな」 「ただちに戸田先生に修復をお願

いしよう」と語った。


 翌年の4月20日。雨のなか、会長の戸田城聖を迎えて妙宝寺の改築落慶法

要が行われた。法主の堀日淳も出席した。法要の後の祝宴で、戸田は扇を手

に舞った。その直後に戸田がもらした言葉を、櫛谷は手記に残している。


 「『今、大作は関西で命がけで戦っているんだ。大作はね、大作は・・・・・』とお

っしゃるや、度の強い眼鏡の奥の目から、涙がこぼれ落ちるのでした」。男子

部の班長だった安永誠之助「大阪でかわいい我が子が死にものぐるいで戦っ

ているのだ」という戸田の声を書き留めている。


 櫛谷の長女、早河寿美子(下関戸田総県副婦人部長)もその場にいた。中学

2年だった。半年前、東陽館で池田から「ぼくがお兄さんになってあげよう。明日

学校がすんだら宿題を見てあげるから持っていらっしゃい」と言われたことがう

れしく、忘れられなかった。「戸田先生の涙を見て、私も悲しくなり、泣けてなりませんでした」。



 池田は苦戦していた。参院大阪地方区の補選の渦中にいた。戸田が下関で

涙を流した4日後、候補の中尾辰義は惜敗を喫する。大阪府警は、戸田にまで

狙いを広げて、選挙違反の捜査に乗り出した。「大阪事件」である。


 さらに時を同じくして、もう一つの既成権力との対決が勃発していた。

 その舞台は北海道の夕張だった。

 「母を大切に。学会を頼む」 ①


 その写真に写っている中村綾子(東京・江東区、地区副婦人部長)。二ヶ月前

に信心を始めていた。「父の明は日雇いの大工。3人の子どもを抱えた貧乏生

活でした」(長男の茂規。江東総区副総区長)。綾子は4歳の茂規の手を引き、

次女の和恵(防府市、婦人部副本部長)を背負って、池田のいる「浴永旅館」

の階段を上がった。「先生は『よく来たね』と言ってお菓子をくださった。当時

は、お菓子なんてなかなか食べられなかったから、とてもよく覚えています」(茂規)。

 池田に励まされた綾子は、茂規の手を引き、和恵を背負って、防府の町を折

伏に歩き始めた。「あんたが幸せになったら来なさいよ」と心ない言葉を浴びせ

られもした。子どもたちの成長を楽しみに歩き続けた。

 成人した茂規。4歳だった自分が写っている「その家旅館」の記念写真ととも

に、学会活動に励む様子を書いて池田に手紙を出したことがある。数日後、池

田の箴言集『わが友へ』が届いた。本の見返しには、


 「お手紙ありがとう。


  母を大切に。学会を頼む」


と書かれていた。


 池田が三度にわたって指揮を執った「山口開拓闘争」で、県下の世帯数は四

百数十から四000超へ、約10倍に発展した。


 それから26年後の1983年(昭和58年)。池田は山口県を含めた西日本指導

に回った。その時池田の語った言葉が記録されている。

 「昔の仏道修行は歩いた。歩みを止めれば仏道修行も終わりだった。今でも

その原理は同じだ。

 動き続けていくのが仏道修行なのだ。その中で健康となり、信心も深まってい

くのだ。ともかく私は歩き続ける。どこまでも歩き続ける」


  「自分との闘争」 ③


 「防府の地で先生から『広布の戦は時間があるからできるというものではない。なくても戦いは進むんだよ』と教わった。過信は命取りや、中心者に呼吸を合わせな空転になると痛感しました」。大阪・松島支部の派遣隊だった辻仁志(総兵庫総主事)が語る。同支部は弘教が進まず悩み、池田のいる下関まで指導を受けに行く時間が惜しいと感じていた。


「突然、宿に電話があり、先生が防府まで来てくださったんです」(辻)。池田は落胆している辻たちに「できている支部よりも君たちのほうが苦労しているはずだ。そう思ったから来たんだよ」と語り、感極まった壮年幹部を「男は戦場で泣くものじゃないんだ」と励ました。「1時間ほどの滞在で、一緒に御本尊に向かいました。次の日から結果が出始めました」。

 

同支部の所属だった松井義明(大阪・生野総区主事)。防府の「その家旅館」で朝食のご飯のおかわりを池田によそってもらった。「申し訳ないやら誇らしいやら、最高の思い出ですわ」と頭をかく。寿司屋だった松島支部長の玉置正一が「池田先生にやらせるわけにはいかん、私がやります」と粘ったが、池田は譲らない。最後の一杯まで派遣メンバーの茶碗に盛って回った。

 

「その前夜、先生は『君たちがなぜ山口まで来たのか教えよう』と言われました。『諫暁(かんぎょう)八幡抄』を通して『仏法西還(せいかん)』という言葉を教わりました」と松井は語る。インドから東へ伝わった仏法が、今度は日本から西へ弘まる、という考えである。


 「『ここに集まった君たちが東洋広布をするのだ。必ず仏法が世界に世界に広がる時が来る。一生はあっという間に終わる。私と一緒にやらないか』と。思わず正座しました。当時は山口に来ただけでも大旅行やったのに、あんなことを言う人はいなかった。一生ついていこうと思いました。

 松井は当時まだ珍しかったカメラを買ったばかりだった。早朝、「その家旅館」の前で池田たちの

集合写真を撮った。

  「自分との闘争」 ②


 「先生は、山陽本線から宇部に乗り換えるために、四番乗り場から八番乗り場へ移動されまし

た」。19歳だった鶴丸正道(山口市、副本部長)。小郡駅に牛乳を配達していた。母のユクが小走り

にやって来た。

「防府から宇部に向かう池田先生が小郡駅で乗り換えるから、会いに行こう」。1957年1月24日、朝8

時過ぎである。

 

乗り換え時間は10分ほど。「先生は車内で駅売りのゆで卵を食べておられました。朝、宿舎を出る

直前まで個人指導をされ、まともに朝食をとられていなかったと思います」。発車ベルの鳴る直前ま

で、池田は正道たちに気さくに語りかけた。

 

この小郡駅に駆けつけた一人に、2歳の娘をおぶった金石モトエがいた。2ヶ月前に入会したばかり

だった。4人の子を抱え、毎日の食費にも事欠いていた。

「近所の人が『この辺りで一番の貧乏は金石さんだ』と言うくらいでした」(長女の梶本圭子、山口圏

副婦人部長)。自宅に戻ったモトエは、子どもたちに「素晴らしい人に会ったよ。何があってもあなた

たちを幸せにするからね」と顔を輝かせて言った。

「小郡駅で、先生とどのようなやりとりがあったかはわかりません。でも、あの日の母の表情と言葉

は、今でも覚えています」。