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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  吹雪の日の出会い ③


 「母は二年後にもう一度、先生と同じ汽車に偶然、乗り合わせたことがありま

した」(百合子)。梅子は「先生、しばらくでございました」とあいさつしながら、「

(今まで出会った人は)大勢いるのに、私のことなど知っていてくださるわけがな

いと思った」という。「母がそう思った瞬間、先生は、にこにこしながら母に『あれ

から二年になりますね。あの時もこの列車でしたね』と声をかけたのです」。

 

北海道の広大な天地でも、池田は「一人」に焦点を当て続けた。

 梅子はゆり子の結婚を機に札幌へ、パートで働きながら、60歳を過ぎて着付

けを習った。地域の文化活動も手伝い、800人が入るホールで着付けショーを

手がけたこともある。2000年(平成12年)に66歳の生涯を終えるまで友好の

輪を広げた。


 池田が初めて夕張を訪れた1957年(昭和32年)1月には、すでに夕張の学

会員に対する炭労(日本炭鉱労働組合)の嫌がらせが始まっていた。「先生は

文京支部に関わることは逐一、くわしく報告を受けておられた。夕張で学会員

へのいじめが起きていることも当然ご存じでした」(黒柳明)。


 同年夏にかけて、炭労は学会員に対する組織的な圧迫を強め、ついには「信

教の自由」を踏みにじる暴挙にでる。あからさまな弾圧を受けた学会は、抗議

のために「札幌大会」(7月1日)、そして「夕張大会」(同2日)を開いた。池田が

総指揮を執った。今号では、そこに至るまでの経緯を追う。

  吹雪の日の出会い ②


 岡本梅子はこの大会で、婦人部の班の責任者に任命されている。2年前(19

55年)、41歳で信心を始めた。

 小さい時から病弱で、常に頭が重く、耳鳴りが続いた。旭川の地で始めた結

婚生活は、夫の酒乱が原因で破綻した。5歳の百合子を連れ、兄を頼って夕

張市の清水沢に移り住んだ。「母はカブの種や洋裁で使う布きれを仕入れ、背

中に担いで、炭鉱員の住宅を回る行商をやっていました」(幸正百合子。札幌

市、婦人部副本部長)。

 娘の百合子も体が弱く、小学二年の時に高熱が続き、心臓弁膜症になった。「医者に二十歳まで生きられないと言われ、大きな声で笑うと体に悪いからと、

マンガも読ませてもらえなかった」と語る。

 

 文京支部の男子部員だった黒柳明(東京・豊島総区主事)から仏法の話を聞

いたことが、梅子の人生の転換点になった。自分の足で人のために歩き、自分

の口で仏法を語る。岡本は弘教の思い出を「毎日が楽しくて楽しくてこんなうれ

しいことはありませんでした。生まれて初めてこんな喜びを経験したしました」と

綴っている。自宅を座談会場にして「大夕張、遠幌、滝之上と、次々に拠点を

作り、よく地方折伏に出かけたものでした」。


 「夕張のヤマを一つ越え、二つ越え、というのは当たり前。信心はこうした母

の姿に教えられました。母が折伏に歩くようになり、母も、あれだけ悪かった私

の体も、次第に元気になった。中学ではバスケットボールの部活ができるまで

になりました」(百合子)

 猛吹雪だった夕張地区の大会の後、梅子は夕張鉄道の車内で池田たちの

姿を見かけた。池田は、太平洋戦争で家を焼かれ苦学を重ねた一人の男子部

員の体験を通して、梅子を励ました。

  吹雪の日の出会い ①


 清水沢に住んでいた岡本梅子。バスに乗り合わせて大会に向かったが猛烈

な雪の中、バスが立ち往生してしまった。会場まであと4キロほど残っている。

ゆうに1時間以上かかる雪道を、一行は黙々と歩き始めた。「私は、足の悪い

入信して間もないおばあちゃんをかかえて歩きました」(岡本の手記)、どうして

も皆より遅れてしまう。「吹雪で全然先が見えず、暗くもなってきます。でも大き

な声でお題目をとなえて歩きました」。


 しばらくして小型のトラックが通りかかった。事情を話すと快く乗せてくれた。「交番がうるさいから」と、会場近くの交番の少し手前で降ろしてもらい、運転手

に礼を言い、息を弾ませて会場へ急いだ。


 建物の外に、人影が見えた──居合わせた人たちにとって、それが池田との

初めての出会いだった。彼らの声は、22年後、池田が会長辞任した直後の「聖

教新聞」に載っている(1979年5月15日付)。

 「あの時は吹雪でなあ。一寸先も見えなかった」

 「入り口でさあ、オーバーも着ないで待っていてくれた人がいたなあ。池田先生だった」

 「ホント、あの時、胸がジーンと熱くなって。この人とともに広布のために働こ

う、苦労のしがいがあるというもんだ、と思った。こごえた体もいっぺんにあったかくなって・・・・」

 

この出会いが「(夕張の)草創の人々の間で、いまだに語り草になっている」と、

記事は伝えている。

 岡本は、文京支部の幹部たちが口癖のように言っていた言葉を思い出した。「わが文京支部には、池田支部長代理という凄い人がいる」「なんでもレントゲ

ンのように見抜く人だ」。


 雪まみれになってたどり着いた参加者たちに池田は「やあ!どうもご苦労さまでした」と声をかけ、次々と会場に迎え入れた。



 「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭。


 国のエネルギー源だった全盛期、


 石炭は炭鉱労働者の命よりも大事に扱われた。


 鉱夫やその家族の生殺与奪(せいさつよだつ)の権を


 握っていたのは炭鉱労働組合(炭労)である。


 1956年(昭和31年)、北海道・夕張炭鉱で、


 学会員を冷遇する動きが起り、


 翌年には炭労あげての排斥(はいせき)運動に発展。


 会員を励ますために、池田大作は現地に急行する。


 その日は横殴りの吹雪だった。夕張の「ヤマ」(鉱山)が白く染まっていた。

 1957年(昭和32年)1月13日夕刻。創価学会夕張地区の大会が、夕張市内で

行われた。午前7時過ぎ、池田大作は日航の阿蘇号で羽田空港を発っている。

初の夕張訪問だった。

 

北海道の夕張は、東京の文京支部が弘教を進めた。つまり、当時の組織名は「文京支部夕張地区」である。文京支部長代理の池田にとって、とりわけ縁の深い地域だった。 

 この時期は前回で触れた「山口開拓闘争」の真っ最中だった。池田は合計3

度山口入りしたが、夕張への初訪問はその二度目と三度目の間にあたる。

 

夕張に初めて学会員が誕生して5年が経っていた。大会の整理役員だった澁

谷安男(夕張市、副圏長)。「1300が参加しました。あの日は雪がすごかった

から、みんな服を着込んで雪だるまみたいになっていた」と語る。鉄道のダイヤ

が混乱したが、日高、芦別、三笠、岩見沢など遠方からも続々と集った。