「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭。
国のエネルギー源だった全盛期、
石炭は炭鉱労働者の命よりも大事に扱われた。
鉱夫やその家族の生殺与奪(せいさつよだつ)の権を
握っていたのは炭鉱労働組合(炭労)である。
1956年(昭和31年)、北海道・夕張炭鉱で、
学会員を冷遇する動きが起り、
翌年には炭労あげての排斥(はいせき)運動に発展。
会員を励ますために、池田大作は現地に急行する。
その日は横殴りの吹雪だった。夕張の「ヤマ」(鉱山)が白く染まっていた。
1957年(昭和32年)1月13日夕刻。創価学会夕張地区の大会が、夕張市内で
行われた。午前7時過ぎ、池田大作は日航の阿蘇号で羽田空港を発っている。
初の夕張訪問だった。
北海道の夕張は、東京の文京支部が弘教を進めた。つまり、当時の組織名は「文京支部夕張地区」である。文京支部長代理の池田にとって、とりわけ縁の深い地域だった。
この時期は前回で触れた「山口開拓闘争」の真っ最中だった。池田は合計3
度山口入りしたが、夕張への初訪問はその二度目と三度目の間にあたる。
夕張に初めて学会員が誕生して5年が経っていた。大会の整理役員だった澁
谷安男(夕張市、副圏長)。「1300が参加しました。あの日は雪がすごかった
から、みんな服を着込んで雪だるまみたいになっていた」と語る。鉄道のダイヤ
が混乱したが、日高、芦別、三笠、岩見沢など遠方からも続々と集った。