EIKOの気まぐれ闘病日記 -128ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  雪の中を泳いで ①


 まず、兄の小室雄太郎と妻のリエに東京での体験談を語った。

 雄太郎は戦地から、リエは樺太からの引き揚げ者だった。雄太郎は鉱員でケガが絶えず、リエは病弱

だった。

「慢性の脚気が原因で、胃下垂から神経衰弱と進み、また心臓病、肋膜炎と、十余年、闘病生活を続けました」(リエの手記)。

リエの父は70歳で盲目になり、母は高血圧で半身不随。幼い3人の子も相次いで先天性皮膚病、くる病(骨軟化症)、肺炎などを患い、雄太郎の給料は治療費に消えた。さらに長男は手がつけられないほど反抗し、リエに出刃包丁を突きつけることもあった。玄関に来客がくると「また長男が外で何かしたのか」と怯えた。「『どうにでもなれ。なるようにしかならない』と全く諦めきった地獄活でした」。


 仏法の話を聞き、リエは「幸せになる道がここにあったのか」と素直に題目を唱え始めた。東京から御本

尊が届くまで、40日かかった。半年後、夫の雄太郎も信心を始めた。

「雨風に負けず、吹雪であろうが、雪の中を泳いで、今日も折伏、明日も折伏と二人の子を抱えて歩きました」(リエの手記)。


 雄太郎が落盤事故で指を負傷した時のことである。労災でおりた保険金を使い、家族そろって東京の学

会本部を尋ねた。

「母にはずいぶん心配をかけました」と語る長男の武士(千葉市、副本部長)。「学会本部では、文京支部長代理だった池田先生が、両親を抱きかかえるように励ましてくださいました」。


 炭鉱での労苦を聞き終えると、池田は名刺の裏に和歌を書いて手渡した。「今はこの歌の意味がわから

ないかもしれませんが、いつか必ずわかりますよ」「つらくてもしっかり信心に励んでいけば、必ず幸せに

なれます」。


 夫妻はその小さな名刺を、ハーモニカ長屋の壁に貼った。つらい時には池田の言葉を読み、いつか夕張の地に、あの支部長代理も来て欲しいものだと願った。


   花吹雪


   妙法流布に

    

   今起てば

 

   慈悲の世界に


   舞うぞ幸(たの)しき


 やがて雄太郎とリエは、家族の病気も、長男の素行の悪さもすっかり陰をひそめたことに気づいた。夕

張で実らせた弘教は110世帯を超えた。労働組合の戦いだけでは得ることのできない「一家和楽」の世

界が、夕張にも生まれていた。


        


  どこにいようとも ②


 モクモクと煙を吐き出す蒸気機関車が、こぼれそうなほど石炭を積んだ貨車を引っ張り、夕張の山あい

を縫うように走っていた。

 炭鉱の仕事は昼夜三交代である。

「まず『繰り込み所』に行って、その日の『番割り』(=仕事の割り振り)を決めました」。夕張炭労で働いて

いた藤原三男(苫小牧市、副圏長)。「採炭」「掘進」「運搬」「支柱員」「保安」など、炭鉱員としての仕事を

割り振った。「特に大事なのは採炭や掘進で、これは出来高制。何メートル進んだかで給料が決まった」

という。


 「キャップライト(安全灯)を装着し、タバコなど火気類を身につけていないか点検し、人車へ乗る。深い

現場だと、到着して仕事を始めるまで一時間ほどかかりましたね」

 坑内に入れば死と隣り合わせである。ちょうど「夕張炭労事件」のころ、ある炭鉱の壮年部員が「発破」

(爆破すること)のために、ダイナマイトを詰める穴をドリルで掘っていた。「急にドリルが軽くなったのでハ

ッとした」という。前回の発破で不発だったダイナマイトが埋もれていた。そこにドリルを突き刺してしまった

のだ。「雷管」に刺激を与えると、その瞬間に爆発してしまう。

 青ざめた彼は緊張しながらドリルを引き抜き、できたばかりの穴に手を突っ込んだ。真っ二つになったダ

イナマイトが出てきた

。雷管は無傷だった。命拾いしたのだ。


 また坑口から炎が吹き出るほどの大爆発が起きた時、逃げ遅れた鉱員たちがいても、手遅れだと判断

され、出入り口をすべて塞いで生き埋めにされたこともあった。「ともすれば鉱員の命よりも採算が優先さ

れる。皆このことを知っていました。だから酒に溺れる者も多かったですよ」と藤原は語る。鉱員たちが

荒々しい気風になるのも当然だった。


 鉱員の住宅である「炭住」は、横一列に並ぶ姿から「ハーモニカ長屋」と呼ばれた。炭鉱までは「人車」と

呼ばれる大きなトロッコで行き来する。ヤマの斜面にびっしりと敷き詰められた住宅群は、昼間は煤けて

見えるが、日が落ちると家々に灯りが点り、他では見られない見事な「光の海」と化した。

 炭住で暮らした人々に取材を重ねると、「お隣との壁は板1枚で、話し声も筒抜け。お互いに何をたべて

いるかもわかった」と誰もが懐かしそうに笑った。

 荒関もまた、このハーモニカ長屋に居を構えた。夕張での日々を「毎日が座談会」のようだったと語り残

している。「生命力」を奮い立たせる学会の信心と、過酷な「生活苦」との闘いが始まった。

  どこにいようとも ①


 荒関が信心を始めたのはその1年半ほど前、35歳の時である。きっかけ

は、戸田城聖の自宅で行われた御書(日蓮の遺文集)講義だった。青年部が

たくさん集まっていた。

 東京・豊島区の大塚で大工をしていた。悩みがあった。11歳の時、父親が妻

子6人を残して蒸発した。荒関は小学校を卒業することなく、弟、妹とともに奉

公に出された。母は旅館に住み込みで働き、苦労を重ねた。

 祖父もまた、妻子8人を捨てて蒸発していた。自分にも家族を捨てる血が流

れているのではないか・・・・・戸田宅の御書講義で荒関は「父も祖父も37歳で

家出をしている。あと2年たったら私も、と思った時、この信心で変えることがで

きますかと、一番先に聞きだした」(荒関の手記)。絶対に解決する、という担当

者の一言で腹を決めた。

 

「三日坊主だろう」と高をくくっていた母や妻も、半年ほど経って一緒に勤行を始

めた。まず、弟の結核が治り、就職先も決まった。母のリウマチが治り、妻の胃

潰瘍が治り、妹も心臓弁膜症を克服。自身の大工の日給は倍増した。数ヶ月

で目を見張るような体験が続き、荒関は弘教にいっそう励んだ。

 

 1952年(昭和27年)の元日には、学会本部の勤行会に参加した。隣に座っ

た人を見て目を丸くした。プロ野球の東急フライヤーズでエースとして名を馳せ

た白木義一郎である。大の野球好きだった荒関は声をかけた。「僕も信心して

いますよ」と白木。「(今年)大阪に旅立ち、広宣流布のお手伝いをする決心で

す」。白木は初代大阪支部長を努め、関西創価学会の礎となっていく。


 この勤行会の席上、戸田城聖は参加者にこう語り、深々と頭を下げた。──

今年一年も、戸田とともに戦ってほしい。どの地に行こうとも、東京にいようと

も、折伏に邁進してほしい──。


 荒関は「蒸発した父が北海道の夕張にいるらしい」という噂を耳にしていた。

夕張には兄がおり、親戚も多い。なにより好況に沸く炭鉱があるから食いはぐ

れることはない。夕張で仏法を弘めよう。親を幸せにしよう、と誓った。


  「ケガと弁当は自分持ち」 ②


 「日本の近代化の故郷」とも、「開国以来の経済成長の恩人」ともいわれた炭

鉱。その現場では、人の命よりも石炭のほうが重かった。

 「たぬき掘り」(=手掘り)の時代からしばらくは、女性も坑内で働いた。大勢

の中国人や朝鮮人が強制労働に駆り出され、虐待を受けた。朝の7時から夜

中の3時までぶっ通しで働かせる、常軌を逸した炭鉱もあった。人が人として扱

われない地の底で、数多くの労働者たちが犠牲になった。

 

1年足らずの間に34回も事故が起き、500人以上が亡くなったこともある。

「ケガと弁当は自分持ち」で、会社は当初、ケガ人や病人に何の歩哨もせず、

役に立たなくなれば新しい働き手を雇えばよかった。

 映画にもなった『にあんちゃん』(安本末子著)や『三たびの海峡』(帚木蓬生

著)など、炭鉱を舞台にした文学作品には「最も弱い立場の人」が苦しめられる

様子が赤裸々に描かれている。囚人労働から始まった非道な環境を改善し、

労働者の命と生活を守る。これが「炭労」使命だった。

 激しい闘争で知られた「炭労」は、労働運動の花形であり、「国労」(国鉄労働

組合)とともに「総評」(日本労働組合総評議会)を支える柱だった。最盛期には

組合員の数が30万人を超え、国会議員も多く輩出した。特に北海道では「労

働運動の歴史は炭労の歴史」と称された。そのなかでも「最強の集団」が夕張

炭労だった。


 「『夕張には3人の市長がいる』と言われてきた。一人は北炭の炭鉱長、もう

一人は三菱の炭鉱長、そして本当の市長」(『地底の葬列』桐原書店)

 「動議(北海道議会議員)は夕張に足を向けて寝られない」とも言われ、知事

も、市長も、炭労の影響を受けない政治家などいなかった。

 

この「炭都」夕張に、蒸発した父親を追って、文京支部の荒関政雄が移り住ん

だのは1952年(昭和27年)の秋である。

  「ケガと弁当は自分持ち」 ①


 夕張の炭鉱で働く学会員たちを襲った「夕張炭労事件」。その背景を知るた

めには、かつて「石炭が国家を支えた時代」を知らねばならない。「石炭を掘

る」事業は明治、大正、昭和を通して国策として進められ、巨大な権力を生んだ。


 「夕張」という美しい地名は、アイヌ語の「ユーバロ」(=鉱石の湧き出るとこ

ろ)が由来だといわれている。1888年(明治21年)、夕張を南北に流れる志

幌加別(しほろかべつ)川の上流で、石炭の大露頭(だいとうろ)(露出した鉱

脈)が見つかった。川の流域一帯に、日本一良質の「黒いダイヤ」が眠っていた。

 

 翌年、「北炭」(北海道炭礦(たんこう)汽船株式会社)が設立された。言論界

実業界で名を轟かせていた福沢諭吉の協力も得た。発起人には第一国立銀

行頭取の渋沢栄一をはじめ、日本郵船、日本鉄道の社長など名だたる財界人

たちが名を連ねている。13万株のうち一万株を皇室が保有した。

 

 初めは空知監獄の囚人たちを働かせた。室蘭線、空知線などの鉄道が次々

に敷かれ、掘り起こされた石炭は上海、香港などにも輸出。石炭から不純物を

除き、選り分けるための「選炭場」は東洋一を誇った。夕張は「北炭の城下町」

と呼ばれ、北炭が発行する「炭山札(やまさつ)」が、貨幣がわりに通用した時

代すらあった。

 

 日清戦争。日露戦争。太平洋戦争。すべての戦争で石炭が必要不可欠だっ

た。敗戦後、日本は破綻した経済を立て直すために「傾斜生産方式」を採用

し、すべての産業のなかから「石炭と鉄鋼の増産」を最優先する。「・・・・・石炭

の生産は上昇し日本経済は荒廃から驚異的な復興を遂げることとなった」(『改

訂増補 夕張市史』)。


 「日本の近代化の故郷」とも、「開国依頼の経済成長の恩人」ともいわれた炭

鉱。その現場では、人の命よりも石炭のほうが重かった。