EIKOの気まぐれ闘病日記 -127ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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  母の方便 ③


 労働組合には、さまざまな種類がある。炭労は、従業員は必ず組合に入らなければならない「ユニオンショップ制」だった。つまり、組合員の資格を失うと、自動的に会社を解雇される。それが嫌なら、炭労に従うか、反対に、炭住から出て行かねばならない──夕張市に住む11万人の大半が、鉱員とその家族である

膨大な人数の「生殺与奪(せいさつよだつ)の権」を炭労が握っていた。参院選以降、炭労はこの仕組みを悪用して、自らの政治的な意図に合わない学会員を排除しようと企てた。


 そもそも労働組合法では、”政治運動を目的とする組織”は労働組合として認められない(第二条)。しかし、すでに炭労は、政治活動・政党支持は自由だが、組合の団結を守るために統制処置をとらざるをえない、という転倒した方針を打ち出していた(1954年。竹中労著『聞書庶民烈伝』から)。

 

 そして、この時の炭労委員長・安部竹松は二年後の選挙──つまり「夕張炭労事件」の発端となった参院選で、夕張で2万1000票余を獲得し、参議院議員になっている。


「炭鉱員の生命と生活を守る」ための炭労は、労働貴族の「票の手段」へと変質しつつあった。労働法の基本を踏み外し、炭労はうぬぼれていた。そのうぬぼれが、現場で無数のいじめを生んだ。矛先は学会の婦人部員と子どもたちにも向けられた。

 

  母の方便 ②


 「もう別れようと思いましたが、母から『こどものためにもう一度やり直してみなさい』と言われ、夫を追って夕張に来たのです」(勝代)。しかし、心の支えだったその母も亡くなってしまった──勝代は戸田に、「信心したのに、どうして母は亡くなったのでしょうか」と尋ねた。

 戸田は「馬鹿者!」と一喝した。

「あんたみたいな親不幸者は見たことがない。どれだけの信心をしてきて、そんなことを言っているのか。お母さんは(死という)方便をもって、わが子に信心を教えたんだ!」。

 「方便」──仏が衆生を導くために用いる「仮の教え」や「手段」である。勝代の人生が変わった瞬間だった。翌日、夫の一男の手をひいて、もう一度、戸田のもとに向かった。

 池田は同じ頃、夏季折伏で札幌に赴いている。緒方博愛(当時、札幌班班長)が運転するスクーターの後ろにまたがって札幌市内を駆け巡り、全国一の弘教を成し遂げた。

 戸田の励ましによって立ち上がった大門一男。この2年後、池田の指揮のもと、短労の横暴と戦う最前線に立つことになる。それは340世帯だった夕張の同志が、戸田の指し示した「2000世帯」へとひた走る真っ只中の出来事だった。


 炭労が暴走したきっかけは、1956年(昭和31年)7月の参議院選挙だった。学会が推薦した6人の候補のうち3人が当選した。池田は大阪で、白木義一郎を奇跡的な勝利に導く。その翌日、戸田は一首の和歌を詠んだ。

 「いやまして 険しき山に かかりけり 広布の旅に 心してゆけ」

 北海道の学会員は、全国区で出馬した辻武寿を推した。夕張炭労は夕張市内の得票について「辻はせいぜい700」と踏んでいた。泡沫候補としか見ていなかったのである。蓋を開けると、2567票──予想の3倍を超えていた。炭労は自らの読みの甘さに焦り、筋違いの攻撃を始めた。

 参院戦後のある日、大門一男が炭鉱に入ると、炭層に白墨で大きく「新法華の大門 早く死ね」と書き殴られてあった。

「夫は『学会から幾らもらっているんだ』と陰口を叩かれたそうです」(勝代)。一男は「面と向かって言われれば、こちらも反論できるのだが、こそこそと嫌がらせをされる。とにかく異様な感じだった」と書き残している。

 「炭鉱では『仕繰り』という仕事があるんです」と藤原三男が語る。

 掘られた坑道は、時間が経つと水分を吸って「磐ぶくれ」を起こし、ひどい時には落盤を防ぐ鉄の支柱まで曲がってしまう。午前中は通れた「炭車」が、昼休みから戻ったら通れなくなっていることもあった。

 「支柱を取り替えたり、坑道を補修するのが『仕繰り』ですが、常に落盤の危険がつきまとうから、炭鉱員は一番嫌がった。学会員は、この仕繰りや、きつい仕事をよく担当させられるようになった。夕張二坑で働いていた父もそうでした。座談会でもたびたび話題になりました」

 女子部員だった保科由子(夕張市、婦人部副本部長)も「炭鉱員だった兄は危ない場所ばかり担当させられて、お昼の弁当を捨てられたこともあった」と語る。

   母の方便 ①


 戸田城聖が夕張を訪れたのは、1955年(昭和30年)の8月だった。敗戦から10年が経っていた。

 戸田にとって夕張は「教育者としての出発の地」である。18歳の時、現・夕張市の真谷地で、尋常

小学校の代用教員に採用され、約2年間教鞭をとった。じつに35年ぶりの夕張だった。当時、夕張

の世帯数は340ほどである。会合で戸田は、2000世帯になったら皆が集える建物をつくろうと約

束し、夕張の学会員たちは沸き立った。


 栄橋の上で士幌加別川をぼんやり眺める女性がいた。大門勝代(苫小牧市、婦人部副本部長)で

ある。「あの時は、頼りにしていた母を失い、悲しみに暮れていました」。

 その時、勝代は見知らぬ女性に声をかけられた。

「旅館の窓からあなたを見た方が心配しています」という。戸田城聖だった。今にも身投げしそうな

様子が気になったのだ。

 

 勝代は1928年(昭和3年)、大阪で鉄工所を営む家に生まれた。日中戦争が始まった少女時代

は裕福で、大阪と神戸に家があった。両都市とも何度も空襲を受け、大阪の家が焼けた。

「8月15日に終戦を迎え、うれしくて泣きました」と語る。


 夫の一男は家庭に恵まれなかった。両親が離婚し、家から離れたい一心で軍隊を志し、満州へ赴

任。転属先の沖縄ではマラリアに苦しんだ。東京での新婚生活は、一男の酒好きと道楽で崩れた。

「酒に飲まれてしまった夫もまた、戦争の犠牲者だったのかもしれません」。勝代はそう振り返る。

 

 夫婦ともに、両親の勧めで学会に入ってはいたが、形だけの信心だった。夫の借金を返すため、

世田谷の家を売り、板橋の家も売った。大阪で会社を興し、再起を賭けたが、社員が資金を持ち逃

げした。絶望した一男は家族をおいて、一人で故郷の北海道に戻ってしまった。


  雪の中を泳いで ③


 婦人部の遠藤キミ。炭鉱員の夫、臣二とともに1954年(昭和29年)の8月に入会した。動機は

長男の小児麻痺だった。両下肢が動かない。札幌の北大病院まで連れて行ったが「現代の医学

では治療できない」とさじを投げられた。息子をおぶって折伏に歩いた。

「『そんなに立派な仏様なら、先に自分の子を治してもらってから来たら良い』とか『あんたの子供

が治ったら入りましょう』など、明らかに馬鹿にした言葉で云われもしました」(遠藤の手記)。

 半年ほど経ったある日。近所の人から、子どもの足が治っている、と驚かれた。後ろに曲がって

いた両足が徐々にまっすぐになり、自分で歩けるようになっていたのだ。信じられなかった。近所

の子どもとチャンバラ遊びもできるようになった。


 「重いランドセルを背負って、山坂30分もかかるところを誰の手も借りずに通学し、無事中学校

も卒業しました」。

 遠藤と同じ月に入会した岩崎ミイ。出産後に肺結核を患い、体重が30キロを切った時もあった。

5年の闘病で左肺を切除。さらに肺と胸膜の間にたまった膿を取り除くため、肋骨を10本も切り、

手術の後遺症で左手が動かなくなった。夫も結核に罹り、失業してしまった。進退窮まった時、夫

の姉の友人が、小樽から3時間も汽車に揺られて折伏に来てくれた。

 信心を始めて1週間後、夫が職場復帰できた。

「吹雪の中をヒザ迄ズブズブと雪につかり、折伏に会合にと毎日出かけたものです」(岩崎の手記)。

 3ヵ月後、ミイは自分でも気づかないうちに、左手で棚の上の鍋をつかんだ。「思わず『アッ』と声

を出し、『上がった上がった、この手が上がった・・・・・』」「嬉しくて嬉しくて2時間も3時間も時の経

つのを忘れて唱題しました」。

 

地の底で働く男たちの間で、ハーモニカ長屋のあちこちで、信仰の実証と言わざるをえない数多く

の体験談が駆け巡った。

 「なんでこんなに伸びているんだ?」。文京支部長の田中正一は目を丸くした。夕張は毎月の弘

教が全国トップクラスに躍り出た。

「文京支部の幹部が夕張に来ると質問攻めにしました。気づくと窓の外が白んでいたこともありました」(会田はるみ)。


  雪の中を泳いで ②


 荒関は根気強く対話を続けた。日曜には座談会を開き、仕事仲間には坑内の「切羽」(作業現

場)での休憩時間にも仏法を語った。再会できた父親も信心を始めた。

 夕張で男子部の部隊長を努めた中尾重義(静岡・富士宮市、副支部長)。

「父の浅吉も炭鉱員で、隣に住んでいたのが荒関さんでした。入会当時、私は高校生でしたが、くっついて一緒に折伏に歩きました」。


 婦人部の班担当員に任命されたある婦人部員は狼狽した。学歴も何もないのに、と自分を卑下

したのである。先輩から「大丈夫。『足の信心』よ」と励まされた。自ら足を動かして対話に歩く人こ

そ尊い、と教わった。

 

佐川智恵子(大空知総県婦人部主事)は「何時間も歩いて折伏に行きました。3,4時間かかるの

も、ざらでした」と語る。「雪の日は頬かむりして、長靴を履いて、馬が歩いた跡が穴になっている

ので、そこにすぽーん、すぽーんと自分の足を入れ、大股で歩きました」。

 

 一年後、夕張の学会員は13世帯に、2年半で120世帯となった。

 93歳の会田はるみ(苫小牧市、地区副婦人部長)。夕張の地区担当員(婦人部の中心者)だっ

た。「炭鉱の坑内がどれくらい危ないかって? 地下から夫が上がってきたら『今日もおめでとう』

と声をかけるくらいで」と言い、からからと笑った。「だからみんな一生懸命に祈り、功徳がどんどん

出た。楽しくてしょうがなかった」。