母の方便 ②
「もう別れようと思いましたが、母から『こどものためにもう一度やり直してみなさい』と言われ、夫を追って夕張に来たのです」(勝代)。しかし、心の支えだったその母も亡くなってしまった──勝代は戸田に、「信心したのに、どうして母は亡くなったのでしょうか」と尋ねた。
戸田は「馬鹿者!」と一喝した。
「あんたみたいな親不幸者は見たことがない。どれだけの信心をしてきて、そんなことを言っているのか。お母さんは(死という)方便をもって、わが子に信心を教えたんだ!」。
「方便」──仏が衆生を導くために用いる「仮の教え」や「手段」である。勝代の人生が変わった瞬間だった。翌日、夫の一男の手をひいて、もう一度、戸田のもとに向かった。
池田は同じ頃、夏季折伏で札幌に赴いている。緒方博愛(当時、札幌班班長)が運転するスクーターの後ろにまたがって札幌市内を駆け巡り、全国一の弘教を成し遂げた。
戸田の励ましによって立ち上がった大門一男。この2年後、池田の指揮のもと、短労の横暴と戦う最前線に立つことになる。それは340世帯だった夕張の同志が、戸田の指し示した「2000世帯」へとひた走る真っ只中の出来事だった。
炭労が暴走したきっかけは、1956年(昭和31年)7月の参議院選挙だった。学会が推薦した6人の候補のうち3人が当選した。池田は大阪で、白木義一郎を奇跡的な勝利に導く。その翌日、戸田は一首の和歌を詠んだ。
「いやまして 険しき山に かかりけり 広布の旅に 心してゆけ」
北海道の学会員は、全国区で出馬した辻武寿を推した。夕張炭労は夕張市内の得票について「辻はせいぜい700」と踏んでいた。泡沫候補としか見ていなかったのである。蓋を開けると、2567票──予想の3倍を超えていた。炭労は自らの読みの甘さに焦り、筋違いの攻撃を始めた。
参院戦後のある日、大門一男が炭鉱に入ると、炭層に白墨で大きく「新法華の大門 早く死ね」と書き殴られてあった。
「夫は『学会から幾らもらっているんだ』と陰口を叩かれたそうです」(勝代)。一男は「面と向かって言われれば、こちらも反論できるのだが、こそこそと嫌がらせをされる。とにかく異様な感じだった」と書き残している。
「炭鉱では『仕繰り』という仕事があるんです」と藤原三男が語る。
掘られた坑道は、時間が経つと水分を吸って「磐ぶくれ」を起こし、ひどい時には落盤を防ぐ鉄の支柱まで曲がってしまう。午前中は通れた「炭車」が、昼休みから戻ったら通れなくなっていることもあった。
「支柱を取り替えたり、坑道を補修するのが『仕繰り』ですが、常に落盤の危険がつきまとうから、炭鉱員は一番嫌がった。学会員は、この仕繰りや、きつい仕事をよく担当させられるようになった。夕張二坑で働いていた父もそうでした。座談会でもたびたび話題になりました」
女子部員だった保科由子(夕張市、婦人部副本部長)も「炭鉱員だった兄は危ない場所ばかり担当させられて、お昼の弁当を捨てられたこともあった」と語る。