EIKOの気まぐれ闘病日記 -126ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 漆の如く、雪の如く ①


 19歳の越川巌は大学進学の夢を捨てきれなかった。高校教師の長男は家を顧みず、次男も大学に行くと言ってきかない。巌は三男だった。

 「家族のために炭鉱で働かざるを得なかった。進学をあきらめ、暗い坑道での仕事はきびしく重労働であり、毎日が地獄そのものであった」(越川の手記)。親友たちが颯爽と進学する姿に胸が痛んだ。

 学びたいが働かねばならない──悩みを吐露する越川をじっと見つめた後、池田は、最高学府で学ぶことは間違いなく有意義だが「大学の勉強が人生のすべてではない」「信仰を通して人生の中で人生の中でいくらでも勉強できるよ」と励ました。


 そして「私も大学に行きたかったが」と続け、戸田のもとで過ごした嵐のような日々を語った。

「あらゆる学問を、戸田先生を通して、生きた学問に変えることができました」。

 越川は、具体的な何かわかったわけではなかった。しかし「必ず道は開ける」と確信できた。

 池田はさらに「御本尊を漆のごとく、雪のごとく信じていきなさい」とも教えた。日蓮が門下に宛てた手紙に「雪至って白ければそ(染)むるにそめられず・漆至ってくろ(黒)ければしろ(白)くなる事なし・・・・・いかにも御信心をば雪漆のごとくに御もち有るべく候」(西山殿御返事)という一節がある。

 「夫は『漆のごとく』『雪のごとく』という言葉を一生の指針にしていました」(妻の越川弘子。札幌市、区副婦人部長)。越川は炭鉱で働いて家族を支え続け、のちに夕張市議会議員として地域のために尽くした。

 いつも連載の読者の皆さん、ペタやコメントいつもありがとうございま


す。m(__)m


 今日は通院日で、東京の表参道まで検査をしてきました。


今日の検査では、この所数値が良かった中性脂肪が少々悪化してい


ました。ガーン


 その他の数値は安定していたので、2ヶ月に1回の検査が、3ヶ月に


1回になりましたニコニコ


 今日1日歩いて疲れてしまったので、今日はペタのお返しができませ


んでした。


 明日皆さんの所にお邪魔しますのでご了承ください。m(__)m


それでは、おやすみなさいぐぅぐぅ


 

  「氷を割って進む船」 ③


 1月14日。三戸部菊太郎(のちに夕張支部の初代支部長)が経営するダンスホール「アマポーラ」を拠点に、数多くの個人指導が行われた。

「アマポーラ」は本町三丁目の高台にあった。「体が弱かったので手をついて、這うように登った」(保科由子)というほど急な石段を踏みしめ、多くの学会員が集った。


 長南キクエは、遠く離れた厚真町から、子どもの病に悩む母親を連れてきた。十数人が列をつくっていた。


 池田とその母親のやりとりを聞きながら、長南は思わず目頭を押さえた。

「ああ、先生はわかってくださったんだなあと思ったら、泣けてなりませんでした」と語り残している。


 池田はかんで含めるように言った。──お子さんのことで悩まなければ、あなたは信心できなかったでしょう。

子どもさんを大事にしてあげなさい。御本尊を信じ、題目をあげていくなら、子どもさんは親に面倒をかけません。必ず解決します。

人は使命を持って生まれる。みんなこの仏法を証明するために生まれてきたんですよ。わかりますか──。


 池田は後ろで待っている人たちにも「どんな悩みも同じだよ。戸田先生について信心していくんですよ。僕もついていきます」と語った。

  「氷を割って進む船」 ②


 初めて夕張を訪れる3日前(1月10日)、池田は日記に書いている。

 「駅より、疲れ果てた身体を、引っさげて帰る。疲れ果てた青春。途中、夜店の、おでん屋にて、一皿食す」(『池田大作全集』第37巻)

 夕張行きの前日(1月12日)には「1日、寒し。無理に、無理を、重ねゆく人生。わが宿命の、止まらざる流転。厳しき、怒涛にたゆます、挑みゆく師弟。新大陸に、たどりつくまでは、断じて、死することは、できぬ・・・・・明日は、独り北海道だ。風寒し。そして、経済もまた」。

 29歳の病弱な体を”引っさげて”、池田は日航機に乗った。

 

 1月13日。夕張鉄道の鹿ノ谷駅に降り立った時、池田は「あんまり寒いので、首が縮んじゃったよ」と笑い、道中、地元の同志に「みんなかわいい。夕張は純粋でかわいい」と繰り返した。

 夕刻、吹雪のなか、夕張地区の大会が開かれた。岡本梅子たちを建物の外で出迎えたのはこの時である。大会で池田は、「法華経」の最後を締めくくる、

  「当起遠迎(とうきおんごう) 当如敬仏(とうにょきょうぶつ)」

 という一節について語った(普賢(ふげん)品)。「法華経をたもつ者を見たならば、仏を敬うように、必ず、遠くからでも立ち上がって出迎え、敬っていきなさい」という意味である。日蓮はこの一言を「最上第一の相伝」(御義口伝(おんぎくでん))と記した。

 「この一節を通して池田先生は『我々は皆、仏なのです』と、烈々と講義されたのです。『皆さんは誰からも、会いたい、顔が見たいと思われる人になってほしい』とも語られました」(保科由子)。さらに池田は「幸せになるかならないかを決定するのは、その人の生命力の強さによる」と訴えた。


  「氷を割って進む船」 ①


 鉱員が仕事を休む時は、各集落の「労務連絡所」に届けを出す。婦人部員たちが夫の休みを申請しに行っても、後回しにされ、取り合ってもらえないことが増えた。

 

 真谷地出身の五十嵐和子(苫小牧市、副本部長)。小学生になったばかりだった。

「お祭りや、いろいろな催しあったのですが、学会員の子だけお菓子をもらえませんでした」と語る。自宅が座談会場だった。深夜、激しい物音が響いた。

「窓が割られ、炭殻((たんがら)石炭を燃やした灰)がどさっと投げ込まれたんです」。犯人はわからなかった。

 

 荒関政雄は「人車」の乗り場から遠く離れた場所に引っ越しさせられた。夕張の商店街で慣行となっていた「つけ払い」の拒否、「労金」(労働金庫)の門前払いなどは日常茶飯事になった。


 ハーモニカ長屋は、ひと冬越すと雪の重みで傷んだ。その修理も重要な福利厚生の一つだが、「学会員が申請しても後回しにされ、雨漏りも、きしんだ出入り口も、いつまでも直してもらえなかった。畳の張り替えも断られた」と澁谷安男は振り返る。

「何より子どもが仲間外れにされるのがつらかった。そうやって皆が苦しんでいた時、池田先生が夕張に来てくださったんです。雲間からさしこんだひと筋の光というか、『氷の塊を割って進む大船』が来てくれたように感じました」。