EIKOの気まぐれ闘病日記 -125ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  漆の如く、雪の如く ⑤


 「池田先生が訪問された直後、夕張市外に弘教に行くグループ『熊隊』を正式に結成し、週末夕張鉄道や国鉄夕張線、室蘭本線なども駆使して、対話を広げました」(黒柳明)。

300㌔東の網走にも、津軽海峡を越えた秋田にも、弘教は進んだ。

 

 昭和30年代に夕張市の公安委員を努めた人物の証言が残っていた。

当時、「なんでこんなことことやるのかな」と思う出来事があったという。公安委員会は週1回、開かれた。

「学会の分布状態、進み具合を克明に報告したものです」。座談会場や学会員宅などの「家の下足を調べる」手法も語った。「(調査は)巧妙だからね」。

 炭鉱のみならず行政まで乗りだし、学会員を追い込む構図が作られていたのだ。

 夕張のヤマに深く積もった雪が溶け、新緑が萌え出た5月、炭労の総力をあげた学会攻撃が始まった。

  漆の如く、雪の如く ④


 その安部に連れてこられて来た串田波江(札幌市、地区副婦人部長)。幌内に住む15歳だった。父が落盤事故に遭い、母も心臓病で入院し、中学3年で家事を切り盛りしていた。共同風呂で聞こえた、学会を馬鹿にするささやき声が耳から離れなかった。

「ああ、気違いが来たから風呂には一緒にはいれないな」。買い物に行くと「お前に売るものはない」と突き放された──。

 

 串田を手招きした池田。一目見て「君は情熱家だね」と言い、メモに「法華経ハ冬の信心なり 春必ず来るべし 希望と夢を忘れず強く進め」と記した。

 法華経は冬の信心──これもまた、串田の置かれた状況そのままの言葉だった。

「とにかく池田先生と一緒にいると、こんなに楽しいのか」(西島夕子。夕張市、圏副総合婦人部長)という3日間の夕張指導が終わった。


 帰京した翌日から、池田は男子部幹部会(17日)、大阪(19日~20日)、三度目の山口開拓指導(21日~25日)、広島、大阪と地方指導が続いた。その合間に、夕張の同志に宛てて1枚の葉書を送っている。

 「美しき雪の夕張、限りなき月光の法戦場。生涯忘れ得ぬ詩の如き、絵の如き夜景でした。斯くの如き清らかな心を持して、軍扇(ぐんせん)を高らかに勇ましく上げられよ。

 ・・・・・眞の人間らしき労働者の住む、夕張に如来の使いとし佛の慈悲を思ふ存分知らしめゆかれん事を」

 皆さん、いつもありがとうございますm(__)m


28日の火曜日が検査と診察の日でした。


 精神科の医師が、鬱と躁の波を少なくする薬を試


したいというので、新しい薬が追加になりました。


 飲んでみると眠気が強くて中々起きられなくなりま


した。


 もう少し飲んで同じようなら、服用をやめようと思っ


ています。


 もう少し頑張ってみますね。

   漆の如く、雪の如く ③


 予定されていた会合が終わるや否や、待ち構えて男女青年部が30人ほど池田のもとに集まった。

「いつまでも帰らない青年たちのために、先生はさらに『一生成仏抄』を講義されました」(保科正彦。夕張市、副圏長)。

 「仏道修行で一番やさしい修行は唱題であり、一番難しい修行も題目を唱えることだよ」と念を押した。

 翌15日、夕張本町駅から札幌駅へ向かった。池田の席に青年部が集まった。鹿ノ谷駅に見送りに来ていた老婦人には袱紗を贈り、別れを惜しんだ。列車が動き出すと「みんなで和歌をつくろう」。懇談が続いた。

 

三笠から来ていた28歳の安部ミツエ(岩見沢市、婦人部副本部長)は、その様子を脇で見つめていた。

「まだ入会して一年も経っていませんでした」。

 自分が乗り換える栗山駅が近づく。池田は安部に「何か書くもの持ってる?」と聞いた。手持ちの大学ノートとペンを渡した。

 池田は「ふまれても ふまれても なお咲くタンポポの笑顔かな 昭和三二年一月一五日 大作」とペンを走らせた。池田が少年時代から好きだった詩である。

「女子部は福運を積むことが大切だよ。信心は長い目で見ないとわからない。頑張るんだよ」とノートを返した。

 ──11人きょうだいの安部。貧乏を骨身に刻んだ。結婚した鉱員の夫が酒に溺れ、職を追われた。希望を失い、母の顔を1日見てから死のうと実家へ行った。

「そこに母の友人の佐川巽さんたちが来ていて、学会の話を聞きました」。

 先輩に連れられて折伏に歩いた。草履がすり減ると、屋根に使うハサ(=わら)で直した。男に交じって坑道で使う丸太を運び、家計を支えた──。マメが何度もつぶれ、こちこちに固まった掌で、池田から大学ノートを受け取った。

 「『ふまれても ふまれても』の言葉が、自分にあまりにぴったりで・・・・・。あの一瞬の出会いが、私の生涯を支えてくれました」。

 83歳の安部は目尻を下げて微笑んだ。

  漆の如く、雪の如く ②


 武田嘉子(岩見沢市、大空知総県婦人部主事)も数年前に大学進学をあきらめた一人だった。家は魚菜店を営んでいた。

「その夜も、7時に店の仕事を終わらせて、着の身着のままで『アマポーラ』の班長会に出席しました」。

 池田は武田に「お父さんはいないのかい」と尋ねた。パーキンソン病を患う父は、信心を始めてから日常生活を送れるようになっていたが、闘病は続いていた。

「その時の私の格好といったら、髪の毛はぐしゃぐしゃ、化粧もせず、折り目のないズボン・・・・・・髪を乱したままで活動に飛びまわることが強盛な信心だ、と思っていたんです」と語る。


 この日、気になっていた疑問を尋ねた。「どうして軍歌の替え歌を歌うのでしょうか」。

 オリジナルな「学会歌」はまだなく、大勢が知っている軍歌などの歌詞を替えて歌っていた。

 「いい質問だ」。池田は笑顔で答えた。「伸びる民族には、民衆の歌がある。やがて色心不二の生命哲学求められる時代が来る。今は替え歌かもしれないが、民衆から沸き上がった学会の歌声が、世界に響く時代が必ず来るよ」。

 

 戸田城聖が「青年部に合唱団をつくったらどうかね」と池田に提案したのも、夕張から札幌に向かう車中のことだった(1957年8月)。その翌年、女子部に初めての合唱団が結成されている。