「ケガと弁当は自分持ち」 ②
「日本の近代化の故郷」とも、「開国以来の経済成長の恩人」ともいわれた炭
鉱。その現場では、人の命よりも石炭のほうが重かった。
「たぬき掘り」(=手掘り)の時代からしばらくは、女性も坑内で働いた。大勢
の中国人や朝鮮人が強制労働に駆り出され、虐待を受けた。朝の7時から夜
中の3時までぶっ通しで働かせる、常軌を逸した炭鉱もあった。人が人として扱
われない地の底で、数多くの労働者たちが犠牲になった。
1年足らずの間に34回も事故が起き、500人以上が亡くなったこともある。
「ケガと弁当は自分持ち」で、会社は当初、ケガ人や病人に何の歩哨もせず、
役に立たなくなれば新しい働き手を雇えばよかった。
映画にもなった『にあんちゃん』(安本末子著)や『三たびの海峡』(帚木蓬生
著)など、炭鉱を舞台にした文学作品には「最も弱い立場の人」が苦しめられる
様子が赤裸々に描かれている。囚人労働から始まった非道な環境を改善し、
労働者の命と生活を守る。これが「炭労」使命だった。
激しい闘争で知られた「炭労」は、労働運動の花形であり、「国労」(国鉄労働
組合)とともに「総評」(日本労働組合総評議会)を支える柱だった。最盛期には
組合員の数が30万人を超え、国会議員も多く輩出した。特に北海道では「労
働運動の歴史は炭労の歴史」と称された。そのなかでも「最強の集団」が夕張
炭労だった。
「『夕張には3人の市長がいる』と言われてきた。一人は北炭の炭鉱長、もう
一人は三菱の炭鉱長、そして本当の市長」(『地底の葬列』桐原書店)
「動議(北海道議会議員)は夕張に足を向けて寝られない」とも言われ、知事
も、市長も、炭労の影響を受けない政治家などいなかった。
この「炭都」夕張に、蒸発した父親を追って、文京支部の荒関政雄が移り住ん
だのは1952年(昭和27年)の秋である。