どこにいようとも ①
荒関が信心を始めたのはその1年半ほど前、35歳の時である。きっかけ
は、戸田城聖の自宅で行われた御書(日蓮の遺文集)講義だった。青年部が
たくさん集まっていた。
東京・豊島区の大塚で大工をしていた。悩みがあった。11歳の時、父親が妻
子6人を残して蒸発した。荒関は小学校を卒業することなく、弟、妹とともに奉
公に出された。母は旅館に住み込みで働き、苦労を重ねた。
祖父もまた、妻子8人を捨てて蒸発していた。自分にも家族を捨てる血が流
れているのではないか・・・・・戸田宅の御書講義で荒関は「父も祖父も37歳で
家出をしている。あと2年たったら私も、と思った時、この信心で変えることがで
きますかと、一番先に聞きだした」(荒関の手記)。絶対に解決する、という担当
者の一言で腹を決めた。
「三日坊主だろう」と高をくくっていた母や妻も、半年ほど経って一緒に勤行を始
めた。まず、弟の結核が治り、就職先も決まった。母のリウマチが治り、妻の胃
潰瘍が治り、妹も心臓弁膜症を克服。自身の大工の日給は倍増した。数ヶ月
で目を見張るような体験が続き、荒関は弘教にいっそう励んだ。
1952年(昭和27年)の元日には、学会本部の勤行会に参加した。隣に座っ
た人を見て目を丸くした。プロ野球の東急フライヤーズでエースとして名を馳せ
た白木義一郎である。大の野球好きだった荒関は声をかけた。「僕も信心して
いますよ」と白木。「(今年)大阪に旅立ち、広宣流布のお手伝いをする決心で
す」。白木は初代大阪支部長を努め、関西創価学会の礎となっていく。
この勤行会の席上、戸田城聖は参加者にこう語り、深々と頭を下げた。──
今年一年も、戸田とともに戦ってほしい。どの地に行こうとも、東京にいようと
も、折伏に邁進してほしい──。
荒関は「蒸発した父が北海道の夕張にいるらしい」という噂を耳にしていた。
夕張には兄がおり、親戚も多い。なにより好況に沸く炭鉱があるから食いはぐ
れることはない。夕張で仏法を弘めよう。親を幸せにしよう、と誓った。