出会いの”種” ③
「出会いの種」が何年も経って花開く場合もある。81歳の藤澤トミ子(山口市、副しらゆり長)。山口市内の「齊藤(さいとう)旅館」に嫁入りしていた。池田は同旅館を二度訪れ、その時、女将の重村マツエが信心を始めている。藤澤は池田との出会いの34年後(1990年)に入会した。
「先生が二度目に齊藤旅館に来られた時、三歳になる私の長男が塗り絵と飴をもらったんです。息子は絵を描くのが好きでした。『どこで知ったのだろう』と驚きましたが、最初に泊まられた時、義母のマツエが話したのかもしれません。今から思えばあの多忙ななか、学会員でもない一従業員の子供にまで心配りをされていたことに感嘆します」
”出会わない出会い”もあった。小学校教師だった岸本ミヤエは弟に折伏された。岩国の旧・玖珂(くが)郡高森町に住んでいた。結核を病んで休職。
「池田先生が、市内の松秀食堂に来られると聞き、駆けつけたが、お会いできませんでした」(岸本の手記)。数日後、縦1メートルを超える洋紙に、墨痕鮮やかな揮毫が届いた。
「山陽広布の黎明の聖鐘(かね)を打とう 昭和31年11月19日」。「高森の人へ」という池田の伝言が添えられていた。
三度の山口指導で、池田は何でも激励の筆を走らせた。中心都市ではなく、辺地で信心に励む、会ったことのない一女性に送ったこの揮毫が、最も大きなものとなった。
しばらくして岸本は復職。ある教え子の母は、岸本が担当した授業参観の思い出を「中國新聞」(1973年8月3日付)に投稿した。その母親は耳が聞こえず、授業参観がいつも苦痛だった。
「懇談のさいに筆記していただいたのは初めてで・・・・・・一校に一人でも岸本先生のように筆記してくださる方がおられたら、聴覚障害者の私どもは、どれほど助かるかしれません」と感謝を綴っている。