民衆こそ王者ー池田大作とその時代  青年の譜(4) 「山口闘争」の二十二日 20 | EIKOの気まぐれ闘病日記

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  出会いの”種” ②


 「どうせまた、金を巻き上げられるのが関の山だ」と思っていたのは吉井光照(山口池田総県総主事)である。戦前から続く荒物屋の三代目だった。

 1945年(昭和20年)、光照が中学三年の時、父が南京で戦病死した。母のチズ子のもとに5人の子と義母が残された。チズ子は多くの宗教を遍歴した末、福岡支部の吉村七郎から折伏された(1956年10月)。光照もいちおう入会はしたが「手を合わせて題目を唱えるのが嫌でした」と振り返る。

 

 「防府は天満宮の『裸坊祭』が有名です。あの頃は、祭りの三日間だけ働けば1年暮らせるといわれていました」。友人と飲み歩く日々だった。同年11月、市内の「ふみや旅館」で池田と初めて会った。

「『君は何も悩みのない顔をしているね。しかしこの信心に入った以上、とことんまでやってみるんだね』と励まされました。不思議な魅力を感じたんですね。『よし、とことんやろう』と。あの日から1日も勤行を欠かしていません」。

 

「私が吉井さんと飲み歩いた悪友です」と笑ったのは植木三夫である。

「祖父の時代、藩主の毛利家と一緒に防府に移り住んだ」という大きなかまぼこ屋に生まれた。吉井の妻、直子(総山口婦人部主事)から「何でも叶う」と言われ入会した。防府の「浴永旅館」で池田に声をかけられた。

「『いい青年がいるじゃないか』 『信心すれば立派な人間になれるよ』と言われて、心を見抜かれたのかと思った」という。

 

戦争中、学校の先生から「お国のたまに死になさい」と教わった。16歳で予科練の松山航空隊に入り、鹿児島の鹿屋で特攻隊の訓練を受けたが、栄養失調で病院に送られた。戦後も暮らしは裕福だった。しかし気が晴れなかった。

「心のどこかで立派な人間になりたいと思っていた。そこに先生の一言が響いたんです」。