「父も見ている」
富美子の父、有馬馨は「武蔵」の竣工引渡し式で、「本艦は、絶対に沈むことのない不沈艦である」(『戦艦「武蔵」』j光人社)と訓示したという。
「温厚篤実な性格の反面、しんのつよい典型的な武人で、柔和な顔を太った身体に乗せて、悠揚(ゆうよう)せまらざる人格者の風貌をみなぎらせていた」(同)。
連合艦隊司令長官の山本五十六が戦死した際は、艦長として遺骨を日本まで還送した。その後、江田島の海軍兵学校教頭に。「敗戦後」を見据えてリベラルな教育を進めていた校長の井上成美を支えた。
「小学生だった私と一緒に兵学校の敷地を歩くのですが、皆が敬礼するので、父はわざわざ人の通らない道を選ぶこともありました」(富美子)。
かつて艦長だった「武蔵」の最期は、南西方面艦隊参謀長として知った。フィリピンのバギオで行われた降伏調印式には、日本側代表の1人として出席している。
「両親が信心を始めるきっかけは私の病気でした」(富美子)。結核菌が首のリンパ節で炎症を起こし、ひどく膿んだ。母の喜久子まず入会した。
「ある時、外出から帰ってきた父が一言、『戸田会長の話を聞いてきた』と言いました。それからひと月ほど経って、父も勤行と唱題を始めたのです」。
有馬は自宅を座談会の拠点にした。知人二人に弘教もしている。学会の鎌倉会館に勤めていた林尚子(神奈川、婦人部副本部長)。
「父が有馬馨さんのお宅に間借りしていたこともあり、有馬さんから折伏されてわが家は信心を始めました」。
有馬が使っていた御書を見せてもらった。「日蓮は日本国の諸人にしうし父母(主師親)なり」(開目抄)、「但(ただ)題目の五字なり」(観心本尊抄)等、随所に赤い傍点が振られていた。
1956年(昭和31年)に馨が亡くなった後、妻の喜久子はがっくりと気を落とした。池田は「戸田先生に全部ご報告してあります。なにかあったら、いつでも本部へいらしてください」と励ました。
「会合の帰り、池田先生と同じ列車に乗り合わせたこともありました」と冨美子は振り返る。
「ちょうど戸田先生の『方便品寿量品精解』という本を買ったばかりで、『なにか一言書いてください』とお願いしました。混み合った車内で、今から思えば失礼なことでした」。
同書は戸田が亡くなる2カ月ほど前に刊行された、法華経の解説書である。池田は車内で立ったまま、「南無とは 敬う心なり 随(したが)う心なりと。 南無しきった人が、清く、そして幸の花を 満開する事が出来るのだ 2月25日」と書いて冨美子に渡した。
10年後の1968年(昭和43年)には、完成したばかりの自著に次のように揮毫して贈った。
「元気かね
いつも 心配しています。
母娘で 誰よりも 雄々しく
信心し 誰よりも 幸福に
なって戴きたい
父も見ている、僕も見守っている。
有馬母娘殿」
池田から「80まで生きてくださいよ」と励まされた喜久子は、83歳で生涯を終えた。人と人との縁は不思議なものである。冨美子は池田の妻、香峰子と女学校時代の同級生でもあった。