民衆こそ王者ー池田大作とその時代  青年の譜(3) 文京支部長代理として 8 | EIKOの気まぐれ闘病日記

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

  リンゴの味は食べないとわからない


 田中都伎子は生前、池田の姿を文京の青年部に語り残している。

 1954年(昭和29年)7月、池袋の常在寺での会合に、60人ほどの新来者が集まった時のことである。式次第はそれぼどの大人数を想定していなかった。池田は「今日はぼくが全部やるから」と支部長の田中に告げ、1時間半ほどの会合を最初から最後まで1人で担当した。

 「結局そのうち40人以上も信心を始めました。青年も、どこかのお店の女将さんも、女子部の世代もいろんな人がいました。先生が話すと場内の雰囲気が柔らかくなるんです。誰よりも勉強になったのは文京支部の私たちでした」(田中)

 池田は新来者たちに声をかけた。並んで座っていた壮年二人に「そこのご主人お二人、お友だちでしょうか」「お住まいはどちらですか」と尋ねた。眉の太い壮年が、不自由な左足を伸ばしたまま「日本橋」ですと答えた。寺島義人(第六代支部長)である。40代半ばの会社経営者で、当時、胃潰瘍と十二指腸潰瘍を併発し、体が弱っていた。

 この日の出会いについて「細長い机を並べて、中央に若い、ハツラツとした青年が、1人1人に話された。人をひきつけるようような感じに、その青年の話には耳を傾けた」と書き残している。

 池田にとっても印象深かった。

「真夏にもかかわらず、白い背広をキチンと着た口ヒゲの紳士が私には強く目についた。この人が寺島さんで、最後まで宗教の正邪、信仰と生活のことについてくい下がってきた人である」(『忘れ得ぬ同志』)。

 「先生は頑固な父に『この信心で必ず願いが叶いますよ』『リンゴは食べてなければ、リンゴの味はわかりませんよ』と話されました。仏法用語よりも、明快なたとえ話に納得したようです」(長男の秀幸、八王子総区主事)。寺島はその日の夜、家族を集めて「あのよくできた若い人を信じて、今日から創価学会に入ることに決めた」と宣言した。

 数日後、寺島は杖をつき、池田夫妻の住む秀山荘に1人でやって来た。

「父なりに喜びを表現したかったのでしょう、一升瓶を持って先生のお宅を訪れ、『とにかくあなたが気に入りました』とだけお伝えして、帰ってきました」(次男の寺島利憲、第二総東京参事)。寺島の弘教はその月だけで10世帯を数えた。


 ある日の座談会。虎の入れ墨をした若い男がひやかしに来たことがある。講道館で柔道四段だった寺島は「キサマのは虎じゃなくて猫だ!」と一喝。肝をつぶしたその男性も、やがて信心を始めた。

 20歳年下の池田を慕い、「若いが第二の父であり、師匠であると心に誓った」という寺島。日本橋地区部長として「首都圏は座敷のうち。福島ぐらいは庭先だ」と弘教に歩き、福島県に初の支部が誕生する先駆けとなった。

 常々、「雪のような純白な信心で生き抜きたい」と周囲に語っていた。寺島の病が篤くなるたびに池田は「正本堂建立まで生きるんだよ」「あと20年は絶対に生きるんだ」と励まし続けた。池田との出会いから23年目の冬、68歳の生涯を閉じた。雪の日だった。

 寺島が文京支部長の時に地区部長だった鈴木卓也(江東区、副本部長)。

「追善法要で池田先生が、『雪を見ると、寺島さんを思い出すなあ』と静かに言われた一言が忘れられません」。