座談会は「幹部」が「一兵卒」の働きを①
「先生が真っ先に手を打たれたのは座談会だった」(田中正一の手記)。池田は座談会について「中心者がわからせよう、わからせようと話して、一方通行になってはいけない、聞き上手になりなさい」「家庭のこと、経済のこと、なんでも聞いてあげなさい。そのなかから人と人とのつながりができて組織はよくなる」(同)と強調した。文京支部の沼津地区に所属していた陶山智恵子(神奈川、婦人部副本部長)。
「沼津の会合で『どうしたら折伏できますか』と質問した時、先生から一言、『座談会に誘うことですよ』と教わりました」。
「座談会は幹部が一兵卒の働きをせよ」(1956年9月9日、文京支部指導会)、
「学会は今組座談会(=最も小規模の座談会)によって、歴史も訓練も、組織もつくられている。もし、これを軽視するようなことがあれば、すべてを軽視することに通ずる」(同10月25日、文京支部班長会)。池田はこの鉄則を貫いた。
文京支部に派遣されて2カ月後。
「本日までの折伏、百十四世帯。支部発足以来の成果となる。来月は、二百世帯突破を誓い合う」(1953年6月21日の日記)。4ヵ月後の10月は、弘教の数が300世帯を突破。
「秋雨。1日1日の過ゆくことの速きことよ。大河の流れに似たり。吾れ、いか程の成長ありや。猛省せん・・・・・明日の地区部長会の打ち合わせに、幹事二人、来宅」(同10月17日)。そして12月は400世帯を超えた。座談会を通して、無数の「一対一の対話」が生まれた。
「昭和28年の5月でした」。92歳の香峰子都峰子(千葉・松戸総県婦人部主事)が語る。
「姉に連れられて座談会に行ったんですが、私のほうが先にはじめたんですよ」。
戦争中、姉のヤス子は満州の延吉に住んだ。職業軍人の夫はニューギニアで餓死した。
「神社に日参していた姉は、『この世は神も仏もない』と思うようになって帰国しました」。
都峰子も「死ぬことばかり考えていた」という。父の事業が失敗し、夫の光希は勤めていた会社が倒産。そのうえ結核になった。
「3人の子のうち長男も結核、喘息、大腸炎でやせ細り、治療費どころか食費も事欠き、笑い声の聞かれない家でした」。
敗戦後、姉のヤス子は行政書士の資格をとった。事務所に来た客が学会の話をし、座談会場の地図を書置きして帰った。ヤス子は「あなたは不幸続きだから、聞いてみてよかったらやりなさい」と言って都峰子を誘った。
姉妹は地図を頼りに、池袋駅近くの「杉田屋」という看板を探した。染物屋だった杉浦寛樹(初代だの豊島地区部長)の家である。
「姉はすぐ帰れるように出口近くに座り、私はなぜか最前列に座りました」。その座談会の担当は池田だった。