「背に焼けた鉄板を1枚入れたる如し①
1953年(昭和28年)、東京・墨田区。朝の錦糸町駅前に、中村慶和(高知牧口県議長)ら男子部第一部隊の面々が、軽快な足音を響かせる。彼らの多くが下駄をつっかけている。着ているのは菜っ葉服(=作業着)や、着古してつるつるになった学生服ばかりだ。
行き先は大森駅近くのアパート秀山荘。部屋の主は第一部隊長の池田である。赤ん坊を抱えた妻の香峰子が出迎えた。
「主人はまもまく帰って来ます。ここにあるものは自由に見てもらって結構ですので、ゆっくりお待ちください」。
玄関を入って左の洋間。机の上には作業・中の本やノート、日記が置いてあった。このころの「若き日の日記」にも、不安定な体調との闘いが赤裸々に綴られている。
「身体の具合、悪し。背中に、焼けたる鉄板を1枚入れたるが如し。且つ、焼けたる木を、一枝、胸中に入れたる感じなり。身体さえ、頑強に、健康になれば、何も恐れることなし。そは、信心以外に、解決の途(みち)はなし」(1953年2月4日)
「一日中、身体の具合悪し。苦しい1日であった。健康を欲するのみ」(同4月7日)。
「心身共に、不調。人生の終幕の如き、悲しき思い有り。人生の旅路、25星霜。倒れてたまるか。先生のお体の具合、次第に悪化の様子。先生、頑張って下さい。私も、断固、頑張ります」(同11月4日)。
第一部隊を支えるメンバーは、平日は夜まで仕事や学会活動で忙しい。部隊長になった池田は日曜午前も午後も、男子部員たちを結婚2年目の自宅へ招き、御書の勉強会や個人指導に費やした。
中村慶和は墨田区の小学校を卒業した後、小さな町工場で働いた。浅草の遊園地などに納入するメダルをつくった。
「東京スカイツリーが建った近くです。屋根は厚紙にコールタールを塗っただけの安手のものでした」。事業不振と借金で苦しみ、1952年(昭和27年)に信心を始めた。その工場に池田が自転車に乗って訪れたことがある。
「穴がたくさん開いた天井をしげしげと見上げて、『君の工場は、プラネタリウムみたいだねえ』とおっしゃってねえ。その言葉が誠実で、生き生きしていて、思わず吸い込まれそうになった。この人のいる学会にはついていけると思った」(中村)。
鈴木武(千葉・柏大勝県主事)は小学校を卒業後、志願して海軍航空隊に入った。予科練習生として横須賀へ赴いた。
「父は台東区蔵前で紙の加工業を営んでいましたが、東京大空襲で自宅が焼け、きょうだい三人と母が死にました」。貧しさに喘ぐ52年10月、先に入会した父の勧めで信心を始めた。
「数ヵ月後、先生と初めて会った時、力強く励ましていただいた。人生が音を立てて変わった感じがした」と振り返る。
第一部隊の出身者には「秀山荘を訪れるのが何より楽しみでした」(並木辰夫、江東総区主事)という人が多い。
「手回し式の蓄音機でクラッシック音楽を聴かせてもらったことも忘れられません。今『若き日の日記』を読むと、体調が優れないなか、本当に励ましていただいたことがわかる。ずいぶん先生の休息の時間を奪ってしまったと恐縮しています」(中村)。