民衆こそ王者ー池田大作とその時代   写真ー人生を照らす光(下) | EIKOの気まぐれ闘病日記

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          東北の「父子の譜」


 大沼湖畔で初めて月を撮った5日後、池田は仙台にいた。約200人の青年部が集まり「仙台・青年と語る会」が行われた(1971年6月14日、旧・東北文化会館)。メンバーの多くが20代前半である。その場に池田は、1組の初老の夫婦を招いた。

 吉原正三郎と妻のしづ子──2週間前、長男の浩一を亡くしたばかりだった。

「目立ってはいけないと、会場の一番後ろにいました」。今年、92歳になるしづ子(宮城、支部副婦人部長)が語る。

 「今日は、吉原浩一君のご両親がいらっしゃっています」。池田はそう言い、二人をそばに呼んだ。

「『今日1日は、絶対に私と離れてはいけませんよ』と言われ、追善の勤行も一緒にしていただいた。泣けて泣けて、声になりませんでした」。

 池田は吉原夫妻に語りかけた。

「優秀な青年でした。惜しかった。さびしいでしょう。辛くて、辛くて、しょうがないでしょう。でもすぐ帰ってくるよ。それが仏法です。それば信心だと確信して。そう確信しなければ・・・・・たまらないよなあ」。

池田に肩を抱かれた正三郎の目から涙がこぼれた。さらに池田は「ぼくが写しました。差し上げましょう」と言い、正三郎に一枚の写真を手渡した。

 「それは木の間から暗い湖面にキラキラ輝く波と、ぽっかり中天にかかった満月の写真でした」(正三郎の手記)。5日前に大沼湖畔で撮ったばかりの写真である。

 正三郎と浩一の親子について、池田は後年、「青葉が薫る杜の都(=仙台)に、広布にかけた父子の譜(うた)は、永く語り継がれていくことであろう」(『忘れ得ぬ同志』)と讃えている。学会本部の職員だった吉原浩一の病状に池田が気づいたのは、1970年(昭和45年)の暮れ。言論問題の余塵がまだ冷めない頃だった。


 東京・信濃町の学会本部。深夜まで明かりのついている部屋を見つけると、池田はしばしば激励して回った。

「窓ぎわに机が一つしかない小さな部屋で、書類に顔をすりつけるようにして彼は仕事に没頭していた・・・・私は非常に心配し『きょうはもう帰りなさい』といい、体の精密検査をするようにも促した。彼は『気をつけます』と唇を結んで答えた」(同)。

 吉原は目が見えにくくなっていた。のちに、腎不全による高血圧で眼底出血していたことがわかる。

 「一家で信心を始めたきっかけは浩一の病気でした」と母のしず子。「幼い頃からリウマチやネフローゼで苦しみました。むくんでいた浩一の足が次第に治っていった時は、本当に嬉しかった」。東北大学に進学し、東北学生部の礎を築いた。卒業時、教授から専攻していた心理学で大学院に残るよう請われたが本部職員を希望し、上京した。

 幾つかの職場を経て「第三文明展」などを担当する部局に配属された。

「吉原君が尽力した『第三文明展』は、言論問題の暴風雨の後、学会の文化運動を社会に大きく開く挑戦でした。彼は誰よりも誠実に取り組んでくれた」(山崎尚見、最高指導会議員)。全国副高等部長として高校生たちの激励にも力を注いだ。

 ある時、壁を伝いながらゆっくり歩く吉原に同僚の鈴木琢郎(副会長)が気づいた。

「おい、目がみえないんじゃないのかか」。病院に行って診てもらうよう説得しても、吉原は頑として拒んだ。

「俺の体は俺が一番知っている。わがままを許してくれ。最後まで闘わせてくれ」と言ってきかなかった。吉原とともに「第三文明展」の運営に取り組んだ北原芳子(東京・町田市、南王者区婦人部主事)。

「たまには早く帰って休めば、と声をかけても、結局明け方まで働くことが多かった。目が見えなくなる前にすべてやっておこうと思っていたのかもしれません」。