民衆こそ王者ー池田大作とその時代    写真ー人生を照らす光(下) | EIKOの気まぐれ闘病日記

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このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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          一人の弟子のため


 71年(同46年)の3月末、吉原は倒れた。「第三文明新人展」や「第三文明華展」に取り組んでいた。搬送先の中野総合病院に池田からの見舞いが何度も届いた。吉原から仕事を引き継いだ高田新平(東京・東大和市、区本部長)。

「お見舞いに行って仕事の話になると『あの資料はあの棚の何段目にある』とすべて覚えておられ、『本部職員の仕事はこのようにするのか』と教わった」。高田が「早く元気になって職場で仕事を教えてください」と声をかけても、吉原はうなずかなかった。

「うそになると知っていたのでしょう。自分に厳しい方でした」。

 「これは高橋雪枝さん(第一宮城総県婦人部総主事)が教えてくれた話です」と姉の渡辺公子(宮城、婦人部副本部長)は語る。

「弟が携わっていた東京での美術展で、受付に池田先生が立って、自ら絵はがきなどを販売されていたのです。そして『今日は吉原浩一君に代わって、ぼくが受付をやっているんだよ』と言われたそうです」。

 吉原は5月中旬に腹膜炎や尿毒症を併発。危篤に陥ったが、回復した。新潟にいた池田も居合わせたメンバーと唱題を重ねている。意識を取り戻した吉原は、家族に「ぼくは死魔に勝ったよ。楽になった」と微笑んだ。

「それまでと全然違う表情になったので驚きました。『ぼくは必ず先生のとそばに帰ってきますから』と話していました」(母のしづ子)。

 それからの10日間ほど、親子で語り合う様子は本当に幸せそうでした」(渡辺公子)。吉原は父の正三郎と互いに御書(日蓮の遺文集)の講義をし、俳句を詠み合った。6月1日、父の腕に抱かれて息を引き取った。29歳の誕生日だった。

 池田が初めて満月にレンズを向けたのは、その8日後である。


 遺族への励ましは、その後も続いた。9年後の夏。池田は聖教新聞の連載「忘れ得ぬ同志」で、吉原の人生を紹介している。掲載前、男子部牙城会の「第一回全国柔剣道大会」に集まった4200人の前で発表した(1980年8月31日、創価大学)。それは第三代会長の辞任後、池田が初めて参加した大規模な行事だった。

 「生前の吉原浩一君は、注目されたこともなく、むしろきわめて目立たない人であった。しかし・・・・新文化の創造に全魂をふりしぼってきた青年であった・・・・・」

 長文が読み上げられるなか、吉原をよく知る友人たちは涙をこらえきれなかった。その一人が語る。

「じつは吉原君は中学時代、柔道部だったんです。黒帯もとっていた。その彼を讃える文章を、先生はわざわざ、柔剣道大会の場を選んで発表された。一人の弟子をここまで大事にされるのか、と心が震えました」。


 「先生から『月の写真を撮る時は”月天子(がってんし)よわが友を護り給え”という思いを込めてシャッターを切るんだよ』と何度かうががったことがあります」(大黒覚、北海道主事)

 月の写真を池田から贈られた時、吉原正三郎は57歳だった。1953年(昭和28年)に信心を始め、東北6県すべてで学会の地区づくりに奔走した。草創期の柱の一人である。その後も総宮城総主事や副東北長などを歴任。

 「夫は、浩一が死ぬまで身につけていた腕時計をはめて東北6県を回りました。相談や信心指導を受けるために、自宅まで来られる学会員さんが年間1000人を超える時もありました。92年の生涯を、先生の弟子として生き抜いた夫でした」(しづ子)

 大沼湖畔の満月の写真は、今もしづ子の部屋に大切に飾ってある。



   写真ー人生を照らす光  連載終了


  (次回の連載は未定です)