荻生徂徠「弁道」読解1~(1)-(3) | ejiratsu-blog

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荻生徂徠「弁名」上・読解1~18

荻生徂徠「弁名」下・読解1~16

伊藤仁斎「語孟字義」上・読解1~14

伊藤仁斎「語孟字義」下・読解1~16

近世日本の朱子学・仁斎学・徂徠学・宣長学の相関

~・~・~

 

 『弁道』は、徂徠学の解説書といえ、『弁名』とともに、荻生徂徠の代表的著作で、『弁道』は総論、『弁名』は各論に相当します。

 ここでは、『弁道』を読解していくことにします。

 

 

(1)

・道難知亦難言。為其大故也。後世儒者、各道所見。皆一端也。夫道、先王之道也。思孟而後、降為儒家者流、乃始与百家争衡。可謂自小已。

 

[道は知り難(がた)く、またいい難し。その大なる為のゆえなり。後世の儒者は、各おの見る所を道とす。皆、一端なり。夫(そ)れ道は、先王の道なり。思(し)・孟(もう)よりして後、降(くだ)りて、儒家者流と為(な)り、乃(すなわ)ち始めて百家と争衡(そうこう)す。自(みずか)ら小にすというべきのみ。]

 

《道は、知りがたく、また、いいがたい。それ(道)が偉大なためだからなのだ。後世の儒学者は、各々見ることを道とした。すべて、ひとつの端緒なのだ。そもそも道は、先王の道なのだ。子思(しし、孔子の孫)・孟子(もうし、子思の孫弟子)以後に、時が経って、儒家の学者の流派となり、つまり、はじめて他派・他家と争い合った。自分で卑小にしたということができるのだ。》

 

※道

 ・先王の道=大(偉大) → 知り(理解し)にくい・言い(表現し)にくい

 ・儒者の道=小(卑小) ← 各々の視座が一部 + 儒家内が分派 + 他派・他家と論争

 

・観夫子思作中庸、与老氏抗者也。老氏謂聖人之道偽矣。故率性之謂道、以明吾道之非偽。是以其言終帰於誠焉。中庸者、徳行之名也。故曰択。子思借以明道、而斥老氏之非中庸。後世遂以中庸之道者誤矣。古之時、作者之謂聖。而孔子非作者。故以至誠為聖人之徳、而又有三重之説。主意所在、為孔子解嘲者可見焉。然誠者、聖人之一徳、豈足以尽之哉。

 

[夫(か)の子思の中庸を作るを観るに、老氏と抗する者なり。老氏は聖人の道を偽(いつわ)りといえり。ゆえに性に率(したが)うを、これ道といいて、もって吾(わ)が道の偽りにあらざるを明らかにす。ここをもって、その言(げん)、終(つい)に誠に帰す。中庸なる者は、徳行の名なり。ゆえに「択(えら)ぶ」という。子思、借りて、もって道を明らかにして、老氏の中庸にあらざるを斥(しりぞ)く。後世、遂(つい)に中庸の道をもってする者は誤(あやま)れり。古(いにしえ)の時、作者をこれ聖という。しかして孔子は作者にあらず。ゆえに至誠をもって聖人の徳と為(な)し、しかしてまた三重の説あり。主意の在る所は、孔子の為に嘲(あざけ)りを解(と)く者なること見るべし。しかれども誠なる者は、聖人の一徳にして、あに、もってこれを尽くすに足らんや。]

 

《あの子思(しし)が(『礼記』49篇の)『中庸』を著作したのを観察すると、老子と対抗するものなのだ。老子は、聖人の道を偽りといった。よって、本性(生まれ持った本来の性質)にしたがう、これを道だといって、それでわが道が、偽り(作為、不自然)でないことを明らかにした。こういうわけで、その(子思の)言葉が、結局、誠に帰着する。中庸なるものは、徳行の名なのだ。よって、「選択する」という。子思は、借りて、それで道を明らかにして、老子が中庸でないと排斥した。後世に、結局、中庸の道をするものは、誤りだ。昔の時代には、(礼・楽等の制度の)作者、これを聖という。そうして、孔子は、(制度の)作者ではない。よって、至極の誠を聖人の徳とし、そうして、また、(制度には、)3重の説(徳・位・時)がある。主要な意味があることは、(子思が、)孔子のために笑われたのを解釈するものであることを、見ることができる。しかし、誠なるものは、聖人のひとつの徳で、どうして、それでこれ(孔子の聖)をいい尽くすのに充分なのか(いや、充分でない)。》

 

※論争

 ・老子:<批判>聖人の道=偽り

 ・子思(『中庸』を著作):道=性(本性)にしたがう→<反論>道が偽りでない+老子に徳行がない

   → 「性にしたがう」が最終的に誠に帰着 → 後世に中庸の道が批判(朱子・仁斎)

※制度(礼楽等):3重の説(徳・位・時)

 ・先王:制度の作者=聖人 → 至誠(至極の誠)=聖人の徳

 ・孔子:制度の作者でない → 誠=聖人の一徳 → 孔子も聖とみなす(徂徠が主張)

 

・至於孟子性善、亦子思之流也。杞柳之喩、告子尽之矣。孟子折之者過矣。蓋子思本意、亦謂聖人率人性以立道云爾。非謂人人率性、自然皆合乎道也。它木不可為桮棬、則杞柳之性有桮棬。雖然、桮棬豈杞柳之自然乎。惻隠羞悪、皆明仁義本於性耳。其実惻隠不足以尽仁、而羞悪有未必義者也。立言一偏、毫厘千里。後世心学、胚胎于此。荀子非之者是矣。故思孟者、聖門之禦侮也。荀子者、思孟之忠臣也。

 

[孟子の性善に至りても、また子思の流なり。杞柳(きりゅう)の喩(たと)えは、告子(こくし)これを尽くせり。孟子のこれを折(くじ)く者は過(あやま)てり。けだし子思の本意も、また聖人、人の性に率(したが)いて、もって道を立つというのみ。人人、性に率はば、自然に皆、道に合(がっ)すというにはあらざるなり。它木(たぼく)は桮棬(はいけん)を為(つく)るべからざれば、すなわち杞柳の性に桮棬あり。しかりといえども、桮棬は、あに杞柳の自然ならんや。惻隠(そくいん)・羞悪(しゅうお)は皆、仁義の性に本づくことを明らかにするのみ。その実は、惻隠はもって仁を尽くすに足らず、しかして羞悪はいまだ必ずしも義ならざる者あるなり。言(げん)を立つること、一たび偏すれば、毫厘(ごうり)も千里なり。後世の心学は、ここに胚胎(はいたい)す。荀子(じゅんし)のこれをあらずとする者は、是なり。ゆえに思・孟なる者は、聖門の禦侮(ぎょぶ)なり。荀子なる者は、思・孟の忠臣なり。]

 

《孟子の性善説に至っても、また、子思の流派だ。カワヤナギの例えは、告子(中国・戦国時代の斉の思想家、孟子と論争)が、これをいい尽くした(『孟子』11-141)。孟子がこれ(告子)を批判するのは、過失だ。思うに、子思の本意も、また、聖人が人の本性にしたがって、それで道を確立したというのだ。誰も彼も本性にしたがえば、自然に皆、道に合わせるというのではないのだ。他の木は、曲げ木細工を作ることができなければ、つまりカワヤナギの本性に曲げ木細工がある。そうはいっても、曲げ木細工は、どうしてカワヤナギの自然なのか(いや、自然でなく、作為だ)。同情・憎悪(の心)は、すべて、仁・義が本性に基づくことを明らかにするのだ。(しかし、)その実では、同情は、それで仁を尽くすのに不足で、そうして、憎悪は、まだ必ずしも義でないものがあるのだ。言葉を確立することが、一度かたよれば、わずかに小さくても、とても大きくなる。後世の心学は、ここに身籠もっている。荀子(中国・戦国時代末期の儒学者、性悪説)が、これ(孟子の性善説)でないとするのは、是な(正しい)のだ。よって、子思・孟子なるものは、聖人の門徒で、外敵からの侮蔑を防禦したのだ。荀子なるものは、子思・孟子に忠告する臣下なのだ。》

 

※人(カワヤナギ)の本性と仁義(曲げ木細工)の道の関係

 ・惻隠(同情)・羞悪(憎悪)の心:仁義が性に基づく → 現実は性≠仁義(惻隠≠仁、羞悪≠義)

 ・性=仁義

  ‐子思:聖人の道=人の性にしたがう→性にしたがっても、誰もが自然に道に適合するのではない

  ‐孟子の性善説:自然=性にしたがった先天的な善による仁義 → 誤り

 ・性≠仁義

  ‐告子:作為=性にさからった後天的な努力による仁義

  ‐荀子の性悪説 → 正しい

 

・然当是時、去孔子未遠、風流尚存、名物不爽。及乎唐韓愈出、文章大変。自此而後、程朱諸公、雖豪傑之士、而不識古文辞。是以不能読六経而知之。独喜中庸孟子易読也。遂以其与外人争者言、為聖人之道本然。又以今文視古文、而昧乎其物、物与名離、而後義理孤行。於是乎先王孔子教法不可復見矣。近歳伊氏亦豪傑、頗窺其似焉者。然其以孟子解論語、以今文視古文、猶之程朱学耳。加之公然岐先王孔子之道而二之、黜六経而独取論語。又未免和語視華言。我読其所為古義者、豈古哉。吁嗟、先王之道、降為儒家者流、斯有荀孟、則復有朱陸。朱陸不已、復樹一党、益分益争、益繁益小。豈不悲乎。

 

[しかれども、この時に当たりて、孔子を去ること、いまだ遠からず、風流なお存し、名、物、爽(たが)わず。唐の韓愈(かんゆ)出ずるに及びて、文章大いに変ず。これよりして後、程・朱の諸公は、豪傑の士なりといえども、古文辞を識(し)らず。ここをもって、六経を読みて、これを知ること能(あた)わず。独(ひと)り中庸・孟子の読みやすきを喜ぶや、遂(つい)に、その外人と争う者の言(げん)をもって、聖人の道もと、しかりと為(な)す。また今文をもって古文を視、しかしてその物に昧(くら)く、物と名と離れ、しかる後に義・理、孤行す。ここにおいてか、先王・孔子の教法、復(ま)た見るべからず。近歳(きんさい)、伊氏もまた豪傑にして、頗(すこぶ)るその似たる者を窺(うかが)う。しかれどもその孟子をもって論語を解し、今文をもって古文を視るは、なお程・朱の学のごときのみ。これに加うるに、公然として先王・孔子の道を岐(わか)ちて、これを二つにし、六経を黜(しりぞ)けて独(ひと)り論語を取る。またいまだ和語もて華言(かげん)を視るを免れず。我その為(つく)る所の古義なる者を読むに、あに古ならんや。ああ、先王の道、降(くだ)りて、儒家者流と為(な)れば、ここに荀・孟あり、すなわちまた朱・陸あり。朱・陸已(や)まず、また一党を樹(た)て、ますます分かれ、ますます争い、ますます繁く、ますます小なり。あに悲しからずや。]

 

《しかし、この(子思・孟子の)時代にあたって、孔子を去ることは、まだ遠くなく、名残は、なおも存在し、名と実物は、違わない。唐代の韓愈(唐中期の官僚、古文復興運動を提唱)が出現するようになって、文章がとても変化した。これ以後、程子(程顥/ていこう+程頤/ていい兄弟、中国・北宋の儒学者)・朱子の方々は、傑出した人物なのだといっても、古文辞(古代の文章の言葉)を知らなかった。こういうわけで、6経を読んで、これを知ることができなかった。唯一『中庸』・『孟子』の読みやすさを喜んで、結局、他学派の人と争うものの言葉によって、聖人の道のもとで、そうした(読んだ)。また、今の文脈によって、古い文章を見て、そうして、その物がわからず、実物と名が離れて、はじめて、意義・理が孤立・行動する。これにおいて、先王・孔子の教説は、再び見ることができなくなった。近年、伊藤仁斎も、また、傑出して、とてもその(程子・朱子の)似たものをねらっている。しかし、その『孟子』によって、『論語』を理解し、今の文脈によって、古い文章を見るのは、ちょうど程子・朱子の学問のようなものだ。これに付け加えれば、堂々として、先王・孔子の道を分岐して、これを2つにし、6経を排斥して、唯一『論語』を取り上げた。また、まだ日本語で中華の言葉を見ることを免れていない。私は、その著作された古義なるもの(伊藤仁斎の『論語古義』・『孟子古義』)を読んだが、どうして昔なのか(いや、昔でない)。ああ、先王の道は、時が経って、儒家の学者の流派になれば、そこに荀子(性悪説)・孟子(性善説)があり、つまりまた朱子・陸象山(中国・南宋の儒学者、心学)がいる。朱子・陸象山は、やまず、また、ひとつ党派を樹立し、ますます分岐し、ますます論争し、ますます繫栄し、ますます縮小した。どうして悲しくないのか(いや、悲しい)。》

 

※名と物(実物)の関係

 ・徂徠学(先王・孔子の道)=名と物が合致(古文辞学):古文(古代の文章)を当時の言葉で読む

 ・唐以降:文章が変化→名と物が分離:古文(古代の文章)を今文(現在の文脈)で読む

  → 義(意義)・理が孤行(孤立・先行):先王・孔子の教法(教説)が見えず(徂徠が批判)

※徂徠から見た過失例

 ・『中庸』:聖人の道をもとに、他学派の言葉で読む

 ・『論語』:読みやすい『孟子』で理解

 ・古義(伊藤仁斎『論語古義』・『孟子古義』):中華の言葉を日本語で読む

 

・不佞藉天寵霊、得王李二家書以読之、始識有古文辞。於是稍稍取六経而読之。歴年之久、稍稍得物与名合矣。物与名合、而後訓詁始明、六経可得而言焉。六経其物也。礼記論語其義也。義必属諸物、而後道定焉。乃舎其物、独取其義、其不泛濫自肆者幾希。是韓柳程朱以後之失也。予五十之年既過焉。此焉不自力、宛其死矣、則天命其謂何。故暇日輒有所論著、以答天之寵霊。且其綱要者数十、以示入門之士者乎爾。

 

[不佞(ふねい)、天の寵霊(ちょうれい)に藉(よ)り、王・李二家の書を得て、もってこれを読み、始めて古文辞あるを識(し)る。ここにおいて、稍稍(しょうしょう)六経を取りてこれを読む。年を歴(と)るの久しき、稍稍、物と名との合するを得たり。物と名と合して、しかる後に訓詁(くんこ)始めて明らかに、六経得て言うべし。六経はその物なり。礼記(らいき)・論語はその義なり。義は必ず諸物に属(つ)き、しかる後に道定まる。すなわちその物を舎(す)てて、独(ひと)りその義を取らば、その泛濫(はんらん)、自肆(じし)せざる者は幾希(すくな)し。これ韓・柳・程・朱以後の失なり。予(われ)五十の年すでに過ぎたり。ここにして自ら力(つと)めず、宛(えん)として、それ死せば、すなわち天命それ何といわん。ゆえに暇日すなわち論著する所ありて、もって天の寵霊に答う。且(しばら)くその綱要なる者、数十を録し、もって入門の士に示す者のみ。]

 

《不才(の私)だが、天の尊い恵みに頼って、王世貞(せいてい、明の学者)・李攀竜(はんりゅう、明の文人)の2家の書物を得て、それでこれを読み、はじめて古文辞(古代の文章の言葉)があるのを知った。こういうわけで、しだいに6経を取り上げて、これを読んだ。年が長く経ち、しだいに実物と名が合わさることを得た。実物と名が合わさって、はじめて、字句の解釈がはじめて明らかになり、6経を修得したということができる。6経は、その物(制度)だ。『礼記』・『論語』は、その意義だ。意義は、必ず様々な物に付属して、はじめて、道が規定する。つまり、その物を捨て去って、唯一、その意義を取り上げれば、それ(意義)が氾濫して、自分勝手にしないものは、少ない。これは、韓愈・柳宗元(以上、唐中期の官僚、古文復興運動を主導)・程子・朱子以後の過失なのだ。私は、50歳をすでに過ぎた。ここで自ら努めずに、そのまま、それで死ねば、つまり天命がそれで何というのか。よって、休日のたびにいつも、つまり論文を著作することがあって、それで天の尊い恵みに答えた。一時、その主要なものは、数10編収録し、それで入門の士に示すものなのだ。》

 

※徂徠学=古文辞学(古代の文章の言葉を当時のまま解釈):6経を修得

 ・6経=物(制度)

 ・『礼記』・『論語』=意義

※物と義(意義)の関係

 ・合致:物に義が付く→道(聖人の道)が定まる

 ・分離:物を捨て義だけを取る→義が泛濫・自肆(氾濫して自分勝手)

  → 韓愈・柳宗元・程子・朱子の過失(徂徠が批判)

 

 

(2)

・孔子之道、先王之道也。先王之道、安天下之道也。孔子平生欲為東周。其教育弟子、使各成其材、将以用之也。及其終不得位、而後修六経以伝之。六経即先王之道也。故近世有謂先王孔子其教殊者非也。安天下以修身為本。然必以安天下為心。是所謂仁也。思孟而後、儒家者流立焉、乃以尊師道為務、妄意聖人可学而至矣。已為聖人、則挙而措諸天下、天下自然治矣。是老荘内聖外王之説、軽外而帰重於内。大非先王孔子之旧也。故儒者処焉不能教育弟子以成其材、出焉不能陶鋳国家以成其俗。所以不能免於有体無用之誚者、亦其所為道者有差故也。

 

[孔子の道は、先王の道なり。先王の道は、天下を安らかにするの道なり。孔子は平生、東周を為(な)さんと欲す。その弟子を教育し、各おのその材を成さしむるは、まさに、もってこれを用いんとするなり。その終(つい)に、位(くらい)を得ざるに及んで、しかる後に六経を修めて、もってこれを伝う。六経は、すなわち先王の道なり。ゆえに近世、先王・孔子その教え殊なりという者あるは、非(ひ)なり。天下を安んずるは、身を修むるをもって本と為す。しかれども必ず天下を安んずるをもって心と為す。これいわゆる仁なり。思・孟よりして後、儒家者流立ち、すなわち師道を尊ぶをもって務めと為し、妄意すらく、聖人は学んで至るべし。すでに聖人となるときは、すなわち挙げて、これを天下に措(お)かば、天下自然に治らんと。これ老・荘の内聖外王の説にして、外を軽んじて重きを内に帰す。大いに先王・孔子の旧にあらざるなり。ゆえに儒者、処(お)りては弟子を教育して、もってその材を成すこと能(あた)わず、出でては国家を陶鋳して、もってその俗を成すこと能わず。体ありて用なきの誚(そし)りを免るること能わざるゆえんの者は、またその道と為す所の者に差(たが)いあるがゆえなり。]

 

《孔子の道は、先王の道なのだ。先王の道は、天下を安寧にする道なのだ。孔子は、普段から、(中国の)東周のようにしようとしていた。その(孔子の)弟子を教育し、各々その(弟子の)人材を育成させるのは、まさに、それでこれ(弟子)を用いようとするのだ。そして、結局、地位を得られず及んで、はじめて、6経を修めて、それでこれ(6経)を伝承した。6経は、つまり先王の道なのだ。よって、近頃、先王・孔子の教えが異なるというものがあるのは、非(誤り)なのだ。(かれらが)天下を安寧にするのは、修身を根本とする。しかし、必ず天下を安寧にすることを心とする。これが、いわゆる仁なのだ。子思・孟子以後に、儒家の学者の流派が確立し、つまり師の道を尊ぶことを務めとし、妄想するに、聖人は学んで至ることができる。すでに聖人であれば、つまり挙動して、これを天下に措置すれば(挙措/きょそ)、天下が自然に治まる。これは、老子・荘子の内聖外王(内面には聖人・外面には王者を兼ね備えること)の説で、外面(実践)を軽視して、重視を内面(理論)に帰着する。大いに先王・孔子が古くないのだ。よって、儒学者は、下野しては、弟子を教育して、それでその(弟子の)人材を育成することができず、出仕しては、国家を感化して、それでその(国家の)世俗を育成することができない。本体(理論)があって作用(実践)がないと責められることを免れることができない理由は、また、その(天下を安寧にする)道をするものに、食い違いがあるからだ。》

 

※聖人=実践重視:学んで至る

 ・孔子の道=先王の道=天下を安らかにする道=6経(孔子が修め伝えた)

 ・天下を安らかにする:そうしようとする心=仁

 ・孔子:東周(周)の政治が理想、弟子教育で人材育成したが、位(君主側近の地位)は得られず

※子思・孟子以後の儒家の学者の流派=理論重視:師の道を尊ぶ、老子・荘子の内聖外王の説を援用

 ・天下を安らかにする:本(根本)=身を修める(修身、『大学』)

 ・内聖外王(内面は聖人・外面は王者)の説=聖人が挙措すれば天下が自然に統治できる

  → 外(実践)軽視・内(理論)重視に帰着、本(本体、理論)あり・用(作用、実践)なし

  → 弟子教育で人材育成できず、国家陶鋳(製造)で世俗育成できず、天下を安らかにする道でない

 

 

(3)

・道者統名也。挙礼楽刑政凡先王所建者、合而命之也。非離礼楽刑政別有所謂道者也。如曰賢者識其大者、不賢者識其小者。莫不有文武之道焉、又如武城絃歌、孔子有牛刀誚、而子游引君子小人学道、可見已。孔安国註、道謂礼楽也。古時言語漢儒猶不失其伝哉。

 

[道なる者は、統名なり。礼楽刑政、凡(およ)そ先王の建つる所の者を挙げて、合わせてこれに命(なず)くるなり。礼楽刑政を離れて別に、いわゆる道なる者あるにあらざるなり。「賢者はその大なる者を識(し)り、不賢者はその小なる者を識る。文・武の道あらざることなし。」というがごとき、また武城の絃歌(げんか)に、孔子、牛刀の誚(そし)りありて、子游(しゆう)、君子・小人の道を学ぶを引くがごとき、見るべきのみ。孔安国の註に、「道は礼楽をいうなり」と。古時の言語、漢儒は、なおその伝を失わざるかな。]

 

《道なるものは、統合した名なのだ。礼(儀礼)・楽(音楽)・刑(刑罰)・政(政令)は、だいたい先王が建造したものを取り上げて、合わせて、これに命名したのだ。礼・楽・刑・政を離れて別に、いわゆる道なるものがあるのではないのだ。「賢者は、その(道の)偉大なるものを知り、不賢者は、その(道の)卑小なるものを知る。文王(殷王朝末期の周の国の君主)・武王(周王朝の創始者、文王の息子)の道でないものはない」というように、また、武城(魯の町、子游が長官)での弦楽・歌唱を、孔子が(ふざけてニワトリをさばくのに、)牛用の包丁(を使っている=弦楽・歌唱が大げさだ)と責めたことがあって、子游(孔子の弟子)が、君子(立派な人)と庶民の道を(孔子から)学んだのを引用したようなもので(『論語』17-438)、見ることができるのだ。孔安国(前漢の学者、孔子の10世孫)の注釈によると、「道は礼・楽をいうのだ」と。昔の時代の言語や、漢代の儒学者は、なおも、その伝承を失っていないな。》

 

※道=統名(統合した名称)

 ・先王の道:先王が立案・挙動する礼(儀礼)・楽(音楽)・刑(刑罰)・政(政令)に合致させて命名

 ・賢者:道=大(偉大)

 ・不賢者:道=小(卑小)

 

・後世貴精賤粗之見、昉於濂渓。濂渓乃淵源於易道器之言。殊不知、道謂易道也、形謂奇偶之象也、器謂制器也。易自卜筮書、不可与它経一視焉。如宋儒訓道為事物当行之理、是其格物窮理之学、欲使学者以己意求夫当行之理於事物、而以此造礼楽刑政焉。夫先王者聖人也。人人而欲操先王之権、非僭則妄、亦不自揣之甚。

 

[後世の精を貴び粗を賤しむの見は、濂渓(れんけい)に昉(はじま)る。濂渓は、すなわち易の道・器の言(げん)に淵源す。殊(た)えて知らず、道は易道をいうなり、形は奇・偶の象(しょう)をいうなり、器は制器をいうなり。易は自(おの)ずから卜筮(ぼくぜい)の書にして、它経(たけい)と一視すべからざることを。宋儒の道を訓じて事物当行の理となすがごときは、これその格物窮理の学にして、学者をして己(おの)が意をもって、夫(か)の当行の理を事物に求めて、これをもって礼楽刑政を造らしめんと欲す。夫(そ)れ先王なる者は、聖人なり。人人にして先王の権を操(と)らんと欲するは、僭(せん)にあらずんば、すなわち妄にして、また自ら揣(はか)らざるの甚(はなは)だしきなり。]

 

《後世の精細を重視し、粗大を軽視する見方は、周敦頤(とんい、中国・北宋の儒学者、宋学の始祖、『太極図説』の作者)にはじまる。周敦頤は、つまり易の道・器の言葉を根源とする。意外にも、道は、易の道をいうのを、形は、奇数と偶数の象形をいうのを、器は制作器物をいうのを、知らないのだ。『易経』は、自然に、占(うらな)い(甲骨占い・竹棒占い)の書物で、他の経典と一目で見分けることができない。宋代の儒学者が、道を注釈して、事物当然の理とするようなものは、これがその格物窮理(物事の道理探究)の学問で、学者を、自己の意思によって、あの当然の理を事物に探し求めて、これによって、礼・楽・刑・政を造作させようとした。そもそも先王なるものは、聖人なのだ。誰も彼も先王の権威を操作しようとするのは、僭越でなければ、つまり無闇で、また、自分で、推し測らないのがひどいのだ。》

 

※易:道・器が具体的、聖人=先王のみ

 ・道=易道(ただの卜筮=占い)

 ・形=奇・偶の象(奇数と偶数の象形)

 ・器=制器(ただの制作器物)

※宋学(周敦頤以降):道・器が抽象的、聖人=誰もが先王の権(権威)を握ろうと妄り(徂徠が批判)

 ・道=形而上のもの(太極)→道=事物当行(当然)の理:格物窮理の学(物事の道理探究の学問)

 ・器=形而下のもの(陰陽)→器=礼楽刑政の制度(制器)

 

・近世又有専拠中庸孟子、以孝弟五常為道者。殊不知、所謂天下達道五者、本謂先王之道可以達於天子庶人者有五也。非謂五者可以尽先王之道也。尭舜之道、孝弟而已矣、亦中庸登高必自卑意、非謂尭舜之道於孝弟也。又如以中庸為道、亦欲以己意択所謂中庸者。苟不学先王之道、則中庸将何準哉。又如以往来弗已為道、是其人所自負死活之説、猶爾貴精賤粗之流哉。凡是皆坐不識道為統名故耳。

 

[近世また、もっぱら中庸・孟子に拠(よ)りて、孝弟(こうてい)・五常をもって道と為(な)す者あり。殊(た)えて知らず、いわゆる「天下の達道は五」なる者は、もと先王の道のもって、天子、庶人に達すべき者、五あるをいうことを。五者、もって先王の道を尽くすべしというにはあらざるなり。「尭(ぎょう)・舜(しゅん)の道は、孝弟のみ」も、また、中庸の「高きに登るには必ず卑(ひく)きよりす」の意にして、尭・舜の道、孝弟に尽くというにはあらざるなり。また、中庸をもって道となすがごときも、また、己(おの)が意をもって、いわゆる中庸なる者を択(えら)ばんと欲す。いやしくも先王の道を学ばずんば、すなわち中庸は将(はた)何をか準とせんや。また、「往来して已(や)まず」というをもって道と為(な)すがごときは、これその人、自負する所の死活の説なるも、なお爾(しか)く精を貴び粗を賤しむの流なるかな。凡(およ)そこれ皆、道の統名たることを識(し)らざるに坐するがゆえのみ。]

 

《近頃は、また、ひたすら『中庸』・『孟子』に依拠して、孝・悌+5常を道とするもの(伊藤仁斎)がある。意外にも、いわゆる「天下の達道(一般に行うべき道)は、5つだ」なるものは元々、先王の道によって、天子(帝王)は、庶民に達成すべきものが、5つ(君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友)あるということを、知らないのだ。(しかも、)5つは、それで先王の道をいい尽すことができるというのではないのだ。「尭・舜(古代中国の伝説上の帝王、尭が舜に禅譲)の道は、孝・悌のみだ」も、また、『中庸』の「高い所に登るには、必ず低い所からする」の意味で、尭・舜の道は、孝・悌でいい尽くしたというのではないのだ。また、『中庸』を道とするようなものも、また、自己の意思によって、いわゆる中庸なるものを選択しようとする。もしも、先王の道を学ばなければ、つまり中庸は、はたまた何に準拠するのか。また、「往来して止まない」ということによって、道とするようなものは、これでその人(伊藤仁斎)が自負する死・活の説というのも、なお、そのように精細を重視し、粗大を軽視する流派なのかな。だいたい、これは、すべて、道が統合した名であることを知らずに、視座しているからなのだ。》

 

※道=統名(統合的な名称) → 仁斎学:すべて先王の道を援用

 ・仁斎学1:道=孝・悌+5常 ~ 先王の道+尭・舜の道を援用

  ‐先王:天下の達道(一般的に行うべき道)=5つ(君臣・父子・夫婦・昆弟・朋友)

  ‐尭・舜:道=孝・悌

  ‐『中庸』:道=己(自己)の意(意思)で中庸を択(選択) ~ 学んだ先王の道に準じる

 ・仁斎学2:道=往来して已(止)まず、死・活(理=死字、道=活字)の説 ~ 聖人の『易経』を援用

 

 

(つづく)