荻生徂徠「弁名」下・読解1~元・亨・利・貞 | ejiratsu-blog

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■下巻

 

 

○元・亨・利・貞:4則

 

(1)

・元亨利貞者、卦徳之名也。諸儒以為天有斯四徳者謬矣。如乾為天、亦後人取其象云爾。其実乾自乾、天自天、豈可混乎。如曰易有天道焉、有人道焉、有地道焉、亦後人玩其象、則見易有三才之道耳。豈必天道哉。大氐易之為書、主占筮。故其設辞不与它書同。読之之道、亦不与它書同。曰観、曰玩、曰不可為典要、可以見已。故乾元亨利貞、当以易観之。不必引天道及聖人之道解之。至其用之、則以為天道亦可矣。以為地道亦可矣。以為聖人之道亦可矣。以為君子之道亦可矣。以為庶人之道亦可矣。故曰不可為典要也。

 

[元・亨(こう)・利・貞(てい)なる者は、卦(け)徳の名なり。諸儒もって天にこの四徳ありと為(な)す者は謬(あやま)れり。乾を天と為すがごときも、また後人その象(しょう)を取りて、しかいう。その実は、乾は自(おの)ずから乾、天は自ずから天、あに混ずべけんや。「易に天道あり、人道あり、地道あり」と曰(い)うがごときも、また後人その象を玩(もてあそ)べば、すなわち易に三才の道あるを見るのみ。あに必ずしも天道ならんや。大氐(たいてい)、易の書為(た)る、占筮(せんぜい)を主とす。ゆえにその辞を設くるは、它(た)書と同じからず。これを読むの道も、また它書と同じからず。「観る」と曰い、「玩ぶ」と曰い、「典要と為すべからず」と曰う、もって見るべきのみ。ゆえに乾の元亨利貞は、当(まさ)に易をもって、これを観るべし。必ずしも天道、及び聖人の道を引きて、これを解せざれ。そのこれを用うるに至りては、すなわち、もって天道と為すも、また可なり。もって地道と為すも、また可なり。もって聖人の道と為すも、また可なり。もって君子の道と為すも、また可なり。もって庶人の道と為すも、また可なり。ゆえに「典要と為すべからず」と曰うなり。]

 

《元・亨・利・貞なるものは、卦(占形/うらかた)の徳の名なのだ。様々な儒学者が、それで天にこの4徳があるとするものは、誤りだ。乾(8卦のひとつ)を天とするようなものも、また、後世の人が、その象徴を受け取って、そのようにいった。その(卦の徳の)実際は、乾が自然に乾、天が自然に天で、どうして混合することができるのか(いや、できない)。「易には、天道があり、人道があり、地道がある」(『易経』)というようなものも、また、後世の人が、その象徴をもてあそべば、つまり易に3才(天・地・人)の道があることを見るのだ。どうして必ず天道なのか(いや、そうでない)。たいてい、易の経書とするのは、占いを主とする。よって、その(占いの)言葉を設定するのは、他書と同じでない。これ(易経)を読む道も、また、他書と同じでない。「観察する」といい、「もてあそぶ」といい、「一定の規則とすることができない」といい、それで見ることができるのだ。よって、乾の元亨利貞は、当然、易によって、これ(元亨利貞)を観察することができる。必ず天道・聖人の道を引用して、これ(元亨利貞)を解釈する。それがこれ(元亨利貞)を用いるに至っては、つまり、それで天道とするのも、また、可な(よい)のだ。それで地道とするのも、また、可な(よい)のだ。それで聖人の道とするのも、また、可な(よい)のだ。それで君子(立派な人)の道とするのも、また、可な(よい)のだ。それで庶民の道とするのも、また、可な(よい)のだ。よって、「一定の規則とすることができない」というのだ。》

 

・元者、首也。如元首明哉、勇士不忘喪其元、牛曰一元大武、皆然。以君即位之年為元年、亦首之義、而首転為始也。乾坤二卦、為易之頭。故曰乾元坤元、以乾与坤為六十二卦之元也。故大哉乾元、至哉坤元、皆連乾坤以言之。亨利貞則否。可以見已。

 

[元なる者は、首なり。「元首、明なるかな」、「勇士はその元(こうべ)を喪(うしな)うを忘れず」、「牛は一元大武(いちげんたいふ)と曰(い)う」のごときも皆、しかり。君の即位の年をもって元年と為(な)すも、また首の義にして、首、転じて始めと為るなり。乾坤(けんこん)の二卦は、易の頭為(た)り。ゆえに乾元・坤元と曰い、乾と坤とをもって六十二卦の元と為すなり。ゆえに「大なるかな乾元」、「至れるかな坤元」は皆、乾・坤に連ねて、もってこれをいう。亨・利・貞は、すなわち、しからず。もって見るべきのみ。]

 

《元なるものは、首なのだ(元=首)。「元首は、聡明だな」(『書経』)・「勇士は、その首を失うことを忘れない」(『孟子』6-52)・「牛は、一元大武(ひとつの頭で偉大な足跡)という」(『礼記(らいき)』)のようなものは、すべて、そのようだ。君主の即位の年を元年とするのも、また、首の意義で、首は、転意して、始となるのだ(元=首=始)。乾・坤の2卦(占形/うらかた)は、易の頭になるのだ(元=首=始=頭)。よって、乾元・坤元といい、乾と坤によって、62卦(=64卦-乾・坤の2卦、64卦=8卦×8卦)の元となるのだ。よって、「偉大だな、乾元」・「至極だな、坤元」(『易経』)は、すべて、乾・坤に連結させて、それでこれをいう。亨・利・貞は、つまり、そのようでない。それで見ることができるのだ。》

 

・元者、善之長也、是引聖人之道為解。元者徳之名也。如一人元良、是也。蓋謂君人之徳也。又首象也。君人之徳、如堯之蕩蕩乎民無能名焉、是其至者也。以堯之允恭克譲、比諸舜之任智、禹之任功、則可以見君之所以為徳者矣。湯師伊尹、則亦不及伊尹、武王不及周公之多材多芸、下焉者則桓公不及管仲之仁、高祖不及三傑之能、而皆能為之君。是君人之徳別有之。而命之曰元已。

 

[「元なる者は善の長なり」とは、これ聖人の道を引きて解を為(な)す。元なる者は徳の名なり。「一人元良」のごとき、これなり。けだし人に君為(た)るの徳をいうなり。また首の象(しょう)なり。人に君たるの徳、堯(ぎょう)の「蕩蕩乎(とうとうこ)として民、よく名づくるなし」のごときは、これその至れる者なり。堯の「允(まこと)に恭して克(よ)く譲る」をもって、これを舜の智に任ぜられ、禹(う)の功に任ぜられしに比(くら)ぶれば、すなわち、もって君の徳と為す所以(ゆえん)の者を見るべし。湯(とう)は伊尹(いいん)を師としたれば、すなわち、また伊尹に及ばず、武王は周公の多材多芸に及ばず、これより下(くだ)る者は、すなわち桓公(かんこう)は管仲の仁に及ばず、高祖は三傑の能に及ばず、しかも皆よく、これが君と為る。これ人に君為るの徳は、別にこれあり。しこうして、これを命(なづ)けて元と曰(い)うのみ。]

 

《「元なるものは、善の長なのだ」(『易経』)、これは、聖人の道を引用して解釈をした。元なるものは、徳の名なのだ。「一人(天子)元良(偉大な善徳)」(『書経』)のようなものは、これなのだ。思うに、人にとっての君主である徳をいうのだ。また、首の象徴なのだ。人にとっての君主である徳が、堯(古代中国の伝説上の帝王)の「ゆったりして、民は、充分に名づけることがない」(『論語』8-203)のようなものは、これがその(君主である徳の)至極のものなのだ。堯が、「本当に恭(うやうや)しく、よく譲る」(『書経』)によって、これ(政治)を、舜(古代中国の伝説上の帝王)の智に委任(禅譲)し、禹の功績に委任したのと、比較すれば、つまり、それで君主の徳とする理由を見ることができる。湯王(殷王朝の創始者)は、伊尹(殷の宰相、湯王が推挙)を導師とすれば、つまり、また、伊尹に及ばず、武王は、周公旦(武王の弟、兄を補佐)の多才・多芸(材芸)に及ばず、これ以降のものは、つまり桓公(斉の16代王)は、管仲(斉の宰相)の仁に及ばず、劉邦(りゅうほう、漢王朝の創始者)は、3傑(張良/ちょうりょう・蕭何/しょうか・韓信/かんしん)の能力に及ばず、しかも、皆、充分にこれが君主となった。これは、人にとっての君主である徳、別にこれがある。そうして、これ(君主である徳)を命名して元というのだ。》

 

・然則何謂元也。書曰、元首明哉。謂能知人而任之也。其能知善人而任之、足以為衆善人之長。故曰元者善之長也。然善人難知。苟非躬安民之徳、則不能知之。故曰体仁足以長民也。是皆取義於元、而引而伸之、触類以長之者也。故以仁為元者非矣。人君之徳、不在知庶務、而在知善人。不在身親之、而在任善人。是知之大者也。故易伝皆訓元為大。為是故也。

 

[しからば、すなわち何を元というや。書にいわく、「元首、明なるかな」と。よく人を知りて、これに任ずるをいうなり。その、よく善人を知りて、これに任ずるは、もって衆善人の長と為(な)るに足る。ゆえにいわく、「元なる者は善の長なり」と。しかれども善人は知り難(がた)し。いやしくも民を安んずるの徳を躬(み)にするにあらずんば、すなわち、これを知ること能(あた)わず。ゆえに「仁を体すれば、もって民に長たるに足る」と曰(い)うなり。これ皆、義を元に取りて、引きてこれを伸(のば)し、類に触れて、もってこれを長ずる者なり。ゆえに仁をもって元と為(な)す者は、非なり。人君(じんくん)の徳は、庶務を知るに在(あ)らずして、善人を知るに在(あ)り。身、これを親(みずか)らするに在らずして、善人に任ずるに在り。これ知の大なる者なり。ゆえに易の伝に皆、元を訓じて大と為すは、これが為のゆえなり。]

 

《それならば、つまり何を元というのか。『書経』によると、「元首は、聡明だな」。充分に人を知って、これ(臣下)に委任することをいうのだ。それが充分に善人を知って、これ(臣下)に委任することは、それで様々な善人の長となるのに充分だ。よって、いう、「元なるものは、善の長なのだ」(『易経』)と。しかし、善人は、知りにくい。もしも、民を安寧する徳を、身にしていなければ、つまり、これ(善人)を知ることができない。よって、「仁を体現すれば、それで民の長であるのに充分だ」(『易経』)というのだ。これは、すべて、義を元に受け取って、引き延ばして、類似にしたがって考えを及ぼし(触類/しょくるい)、それでこれ(義)を伸長するものなのだ。よって、仁を元とするものは、非(誤り)なのだ。君主の徳は、庶民を知ることにあるのでなく、善人を知ることにある。身は、これ(統治)を自分ですることにあるのではなく、善人に委任することにある。これは、智の偉大なものなのだ。よって、『易経』の伝に、すべて、元を注釈して、偉大とするのは、これ(善人の委任)のためだからだ。》

 

 

(2)

・亨者、謂其道盛行、無所擁閼也。元亨者、大者之道行也。小亨者、小者之道行也。辟如烹物。水火之気、莫所不達焉。辟如聘亨之礼。講信脩睦之道、莫所不通焉。亨本聘亨之亨、借以言其通也。蓋聘亨之礼行、而諸侯無不至者焉。通之盛也。後世誤音聘亨之亨為食饗之饗。然聘礼有亨与饗、音同許両反、当時将何以別乎。故聘亨之亨、元亨之亨、皆許庚反、食亨之亨、乃許両反。其於文、聘亨作亨、則食饗作亨、聘亨作亨、則食饗作饗。聘亨唯献璧馬、食饗則宴。故易曰、公用亨于天子、王用亨于西山。皆作亨。可以見已。

 

[亨なる者は、その道、盛んに行われて、擁閼(ようあつ)する所なきをいうなり。元亨なる者は、大者の道、行わるるなり。小亨なる者は、小者の道、行わるるなり。辟(たと)えば物を烹(に)るがごとし。水火の気は、達せざる所なし。辟えば聘亨(へいきょう)の礼のごとし。信を講じ睦を脩(おさ)むるの道は、通ぜざる所なし。亨は、もと聘亨の亨にして、借りて、もってその通ずるをいうなり。けだし聘亨の礼、行われて、諸侯、至らざる者なり。通ずるの盛んなるなり。後世、誤りて聘亨の亨を音して、食饗(しょくきょう)の饗と為(な)す。しかれども聘礼に亨と饗とあり、音、同じく許両(きょうりょう)の反(かえし)ならば、当時、将(はた)何をもって別たんや。ゆえに聘亨の亨、元亨の亨は皆、許庚(きょうこう)の反、食亨の亨は、乃(すなわ)ち許両の反なり。その文における、聘亨の亨に作るときは、すなわち食饗は亨に作り、聘亨を亨に作るときは、すなわち食饗を饗に作る。聘亨には、ただ璧(へき)・馬を献じ、食饗には、すなわち宴す。ゆえに易にいわく、「公、用(もっ)て天子に亨(こう)す」、「王、用て西山に亨す」と。皆、亨に作る。もって見るべきのみ。]

 

《亨(こう)なるものは、その(亨の)道が盛んに行われて、遮断することがないのをいうのだ。元亨なるものは、偉大なものの道が行われるのだ。小亨なるものは、卑小なものの道が行われるのだ。例えば、物を煮るようなものだ。水気・火気は、到達しないことがない。例えば、(諸侯間の)使者往来の礼のようなものだ。信用を講和(講信)し、親睦を修交(修睦)する道は、通好しないことがない。亨は元々、使者往来の贈物で、仮借して、それでそれ(諸侯の使者)が通好することをいうのだ。思うに、使者往来の礼が行われて、諸侯は、(相手国に)至らないものなのだ。通好するのが盛んなのだ。後世に、誤って、聘亨の亨を音声にして、食饗の饗とした。しかし、使者往来には、贈物と饗宴があり、音声が同じで、許両の反(の発音)ならば、当時は、もしかすると、何によって分別したのか。よって、聘亨の亨・元亨の亨は、すべて、許庚の反(の発音)で、食亨の亨は、つまり許両の反(の発音)なのだ。それが文章において、聘亨の亨に書くならば、つまり食饗は、亨に書き、聘亨を亨に書くならば、つまり食饗を饗に書いた。使者往来には、ただ璧・馬を献上し、饗食には、つまり宴会する。よって、『易経』によると、「公用は、天子(帝王)に贈物する」・「王用は、(中国の)岐山(周の本拠地)に贈物する」。すべて、亨に書く。それで見ることができるのだ。》

 

 

(3)

・利有数義。如曰君子喩於義、小人喩於利、曰放於利而行、曰見利思義、皆謂営生而有所得。是財利之利也。如曰利用厚生、曰利器、皆謂善治其器、使軽便於用之。用亦器也。是鋭利之利也。如易曰利有攸往、利渉大川、皆謂作其事有成功。是吉利之利也。如利物、利天下、謂使其得益被沢。是利益之利也。故易亨利、其義相似。亨主其道之行言之、利主行其事有成功言之。是其異已。仮如以聘亨言之、則藉此而諸侯和順、国被其福。是利也。故経文主受利者言之、而至於文言曰利物、則主施利者言之。利物也、利益万物。是仁也。必以義済之、而後物可得而利益。故曰、利物足以和義。和者如五味相和之和。謂以異済同也。仁大矣。苟非義以差別之、則仁不可成焉。是文言皆以君子之道解易已。

 

[利に数義あり。「君子は義に喩(さと)し、小人(しょうじん)は利に喩す」と曰(い)い、「利に放(よ)りて行う」と曰い、「利を見て義を思う」と曰うがごときは皆、生を営みて得る所あるをいう。これ財利の利なり。「用を利し、生を厚くす」と曰い、「器を利にす」と曰うがごときは皆、善(よ)くその器を治めて、これを用うるに軽便ならしむるをいう。用もまた器なり。これ鋭利の利なり。易に「往く攸(ところ)あるに利」、「大川を渉(わた)るに利」と曰うがごときは皆、その事を作(な)して成功あるをいう。これ吉利の利なり。「物を利す」、「天下を利す」のごときは、それをして益を得(え)、沢(たく)を被(こうむ)らしむるをいう。これ利益の利なり。ゆえに易の亨・利は、その義、相似たり。亨は、その道の行わるるを主として、これをいい、利は、その事を行いて成功あるを主として、これをいう。これその異のみ。仮如(もし)、聘亨(へいこう)をもって、これをいうならば、すなわち、これに藉(よ)りて諸侯、和順し、国その福を被る。これ利なり。ゆえに経の文は利を受くる者を主として、これをいい、しこうして文言に「物を利す」と曰うに至りては、すなわち利を施す者を主として、これをいう。「物を利す」とは、万物を利益す。これ仁なり。必ず義をもって、これを済(な)して、しかる後、物は得て利益すべし。ゆえにいわく、「物を利するは、もって義に和するに足る」と。和なる者は、五味、相和するの和のごとし。異をもって同を済すをいうなり。仁は大なり。いやしくも義の、もってこれを差別するにあらずんば、すなわち仁は成すべからず。これ文言は皆、君子の道をもって易を解するのみ。]

 

《利には、数種の義がある。「君子(立派な人)は、義に理解し、庶民は、利に理解する」(『論語』4-82)といい、「利に任せて行う」(『論語』4-78)といい、「利を見て、義を思う」(『論語』14-345)というようなものは、すべて、生活を営んで、得ることがあるのをいう。これは、財利の利なのだ。「利用・厚生(生活の便利・満足)」(『書経』)といい、「利器」(『論語』15-388)というようなものは、すべて、よく、その器を治めて、これを利用するのに手軽・便利にさせることをいう。利用も、また、器なのだ。これは、鋭利な利なのだ。『易経』の「往くところにある利」・「大川を渡って利」というようなものは、すべて、作事して成功があることをいう。これは、吉利の(縁起のよい)利なのだ。「物を利する」・「天下を利する」(『易経』)のようなものは、それをして、利益を得て、恩沢(恩恵)を受け取らされることをいう。これは、利益の利なのだ。よって、『易経』の亨・利は、その意義が互いに似ている。亨は、その道が行われることを主として、これをいい、利は、その事を行って、成功があることを主として、これをいう。これは、それが異なるのだ。もし、(諸侯間の)使者往来によって、これ(利)をいうならば、つまり、これにかこつけて、諸侯は、調和・順応し、国は、その幸福を受け取る。これは、利なのだ。よって、経書の文章は、利を受け取るものを主として、これをいい、そうして、(『易経』の)文言伝の、「物を利する」というのに至っては、つまり利を施すものを主として、これをいう。「物を利する」とは、万物を利益する。これは、仁なのだ。必ず義によって、これ(仁)を成し遂げて、はじめて、物は、得て、利益することができる。よって、いう、「物を利することは、それで義に調和するのに充分だ」(『易経』)と。和なるものは、5味(酸味・苦味・辛味・塩味・甘味)が相互に調和する和のようなものだ。異なりによって、同じを成し遂げることをいうのだ。仁は、偉大なのだ。もしも、義が、それでこれ(利)を区別するのでなければ、つまり仁は、成立することができない。これは、(『易経』の)文言伝が、すべて、君子の道によって、易を解釈するのだ。》

 

 

(4)

・貞者、存乎中者不変也。曰開物成務、曰成天下之亹亹。是卜筮之道、本在使人能勤其事不怠也。凡天下之事、人力居其半、而天意居其半焉。人力之所能、人能知之。而天意所在、則不能知之。不知即疑。疑則怠而不勤。怠而不勤、則併其人力不用之。事之所以壊也。故聖人作卜筮、以稽其疑、藉是而人得知夫天意所在、亹亹為之不已。事之所以也。故曰成務、曰成亹亹、是之謂也。然其人存乎中者渝、則終亦怠已。故諸卦皆曰利貞、謂不変者之必成也。不恒其徳、或承之羞。孔子曰、不占而已矣、亦此意。它如変曰悔、不変曰貞、貞勝、貞観、貞明、貞夫一、及君子貞而不諒、及貞女之貞、皆不変之義也。

 

[貞なる者は、中(うち)に存する者、変ぜざるなり。「物を開きて務めを成す」と曰(い)い、「天下の亹亹(びび)を成す」と曰う。これ卜筮(ぼくぜい)の道は、もと人をして、よくその事に務めて怠(おこた)らざらしむるに在(あ)るなり。凡(およ)そ天下の事は、人力その半ばに居(お)りて、天意その半ばに居る。人力の、よくする所は、人よく、これを知る。しこうして天意の在る所は、すなわち、これを知ること能(あた)わず。知らざれば、すなわち疑う。疑えば、すなわち怠りて勤めず。怠りて勤めざれば、すなわち、その人力を併せて、これを用いず。事の壊(やぶ)るる所以(ゆえん)なり。ゆえに聖人は卜筮を作りて、もってその疑いを稽(かんが)え、これに藉(よ)りて、人(ひとびと)夫(か)の天意の在る所を知るを得(え)、亹亹として、これを為(な)して已(や)まず。事の成る所以なり。ゆえに「務めを成す」と曰い、「亹亹を成す」と曰う。これのいいなり。しかれども、その人の、中に存する者、渝(かわ)れば、すなわち終(つい)にまた怠らんのみ。ゆえに諸卦、皆「貞に利あり」と曰うは、変ぜざる者の必ず成るをいうなり。「その徳を恒にせざれば、或いはこれが羞(はじ)を承(う)く。孔子いわく、『占わざるのみ』と」も、またこの意なり。它(た)の「変ずるは悔と曰い、変ぜざるは貞と曰う」、「貞にして勝つ」、「貞にして観(しめ)す」、「貞にして明らか」、「夫の一に貞なり」、及び「君子は貞にして諒(りょう)ならず」、及び貞女の貞のごときも皆、変ぜざるの義なり。]

 

《貞(てい)なるものは、中に存在するものが、不変なのだ。「開物成務(人知を開発し、職務を成就すること)」(『易経』)といい、「天下が努力を成し遂げる」(『易経』)という。これは、占いの道が元々、人に充分にその事を務めて、怠らせないことにあるのだ。だいたい天下の事は、人力がその半分あって、天意がその半分ある。人力が充分にすることは、人が充分にこれ(人力)を知っている。そうして、天意が存在することは、つまりこれ(天意)を知ることができない。知らなければ、つまり(天意を)疑う。(天意を)疑えば、つまり怠って勤めない。怠って勤めなければ、つまり、その人力を併用しない。事が崩壊する理由なのだ。よって、聖人は、占いを作って、それでその(天意の)疑いを考え、これ(占い)にかこつけて、人々が、あの天意の存在することを知り得て、努力して、これをして、やめない。事が成立する理由なのだ。よって、「成務」といい、「努力を成し遂げる」という。これをいうのだ。しかし、その人の中に存在するものが変われば、つまり結局、また、怠るのだ。よって、様々な占いが、すべて、「貞に利がある」というのは、不変なものが必ず成立することをいうのだ。「その徳を恒常にしなければ、これが恥だと承知したりする。孔子がいう、『占わないのだ』(『論語』13-324)と」も、また、この意味なのだ。他の「変化は、後悔といい、不変は、貞という」(『書経』)、「貞して勝つ」・「貞で見せ示す」・「貞で明らか」・「あのひとつに貞なのだ」(『易経』)、「君子は、貞で固執しない」(『論語』15-415)、貞女(貞節の女性)の貞のようなものも、すべて、不変の意義なのだ。》

 

・又如伝多訓貞為正者、本謂位当為正。陽居陽位、陰居陰位、是也。陽居陰位、陰居陽位、如移魚鼈於山、植草木于河海。則必失其性已。凡天下之物、唯性不可変矣。故曰利貞者性情也。然物与位不当、必至於失其性。失性則変、不得為貞。是訓貞為正之義也。志不挫則百事皆可成。故文言曰、貞固足以幹事。亦以君子之道解易者也。

 

[また伝に多く貞を訓じて正と為(な)す者のごときは、もと位の当るをいいて正と為す。陽は陽の位に居(お)り、陰は陰の位に居る、これなり。陽の陰の位に居り、陰の陽の位に居るは、魚・鼈(べつ)を山に移し、草木を河海に植(う)うるがごとし。すなわち必ずその性を失わんのみ。凡(およ)そ天下の物は、ただ性のみ変ずべからず。ゆえにいわく、「利貞なる者は性情なり」と。しかれども物と位と当らざれば、必ずその性を失うに至る。性を失えば、すなわち変じ、貞と為(な)すことを得ず。これ貞を訓じて正と為すの義なり。志、挫(くじ)けざれば、すなわち百事、皆、成すべし。ゆえに文言にいわく、「貞、固(こ)なれば、もって事に幹たるに足る」と。また君子の道をもって易を解する者なり。]

 

《また、伝に多く、貞を注釈して、正とするようなものは元々、位置が相当することをいって、正とする。陽は、陽の位置にいて、陰は、陰の位置にいる、これなのだ。陽が陰の位置にいて、陰が陽の位置にいるのは、魚・スッポンを山に移動し、草木を川・海に植え付けるようなものだ。つまり、必ずその本性が失われるのだ。だいたい天下の物は、ただ本性だけが変化することはできない。よって、いう、「利貞(ただしきによろし)なるものは、本性の情なのだ」(『易経』)と。しかし、物と位置が相当しなければ、必ずその本性を失うことに至る。本性を失えば、つまり変わり、貞とすることを得られない。これは、貞を注釈して、正とする意義なのだ。意志が挫折しなければ、つまり万事は、すべて、成立することができる。よって、(『易経』の)文言伝によると、「貞が固定ならば、それで事の根幹に充分だ」。また、君子(立派な人)の道によって、易を解釈するものなのだ。》

 

・元或為首、或為大。亨或為通、或為聘亨。利或以為我得其利、或以為利人。貞或以為不変、或以為当位。是易之不可為典要、所以与他書殊也。然至於後世儒者傅会以天道、又以仁義礼智配之、則牽強遷就、不成文意。妄亦甚哉。

 

[元、或いは首と為(な)し、或いは大と為す。亨(こう)、或いは通と為し、或いは聘亨(へいこう)と為す。利、或いはもって我その利を得と為し、或いはもって人を利すと為す。貞、或いはもって変ぜずと為し、或いはもって位に当ると為す。これ易の「典要と為すべからず」というものにして、他書と殊(こと)なる所以(ゆえん)なり。しかれども後世の儒者の傅会(ふかい)するに天道をもってし、また仁義礼智をもって、これに配するに至りては、すなわち牽強(けんきょう)遷就(せんしゅう)にして、文意を成さず。妄なること、また甚(はなは)だしきかな。]

 

《元は、首としたりし、大としたりする(元=首=大/おおいに)。亨は、通としたりし(亨=通/とおる)、(諸侯間の)使者往来としたりする。利は、それで私がその利益を得るとしたり、それで人を利益するとしたりする。貞は、それで不変としたり、それで位置に相当するとしたりする。これは、『易経』の「一定の規則とすることができない」で、他の書物と異なる理由なのだ。しかし、後世の儒学者が、こじつけるのに、天道によってし、また、仁義礼智によって、これを差配するに至っては、つまり、こじつけで、文章の意味を成立させていない。妄想なのは、また、ひどいな。》

 

 

(つづく)