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日本の思想は、歴史的に構造化されず雑居しているだけだと、指摘されていますが、そのような中で、近世日本の朱子学→(伊藤)仁斎学→(荻生)徂徠学→(本居)宣長学の変遷は、他学を批判・賛同しながらも、公的政治・私的文芸において、後世の近現代の方向性を指し示しているようにもみえます。
ここでは、それら4者の相互関係をみていきます。
●近世日本の朱子学/反朱子学
西洋哲学では、「ある」ことの実在(ザイン・Sein)と、(ある・なす)「べき」ことの当為(ゾルレン・Sollen)に、区分することがあるようです。
それらを当て嵌めると、どちらかといえば、朱子学は、まず、理(理論)を提示し、つぎに、それをもとに整合するよう、都合よく文献を再解釈するので、主観的な当為が先、主観的な実在が後で、宗教的といえます。
一方、反朱子学の仁斎学・徂徠学・宣長学は、程度差がありつつも共通しており、まず、できるだけ文献の真意を解釈し、それをもとに道(実践)を提示するので、客観的な実在(恣意の排除)が先、主観的な当為(目標の設定)が後で、学問的といえます。
それらは、次のように、まとめることができます。
○朱子学:宗教的
[先]当為(「べき」):主観的
・理=天地自然と人間社会は貫通:人性即天理は善、人欲は悪 ~ 天・老荘思想・大乗仏教の影響
・主体を居敬(敬い慎む心)し、客体を窮理(道理の探究)
[後]実在(「ある」):主観的
・4書(『中庸』『大学』『論語』『孟子』)を再解釈
○反朱子学:学問的
[先] 実在(「ある」):客観的
・仁斎学=古義学:語孟(『論語』『孟子』)を解釈
・徂徠学=古文辞学:6経(『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』)を解釈
・宣長学=古学(国学):古典文学(和歌・『源氏物語』『古事記』)を解釈
[後] 当為(「べき」):主観的
・仁斎学=孔孟の道:徳目(仁義礼智、内面の思想)は人倫的な善
・徂徠学=先王の道:聖人の制度・事跡(詩書礼楽刑政、外面の形式)は政治的な善
・宣長学=神の道:人情・人欲(純真な感情)は文芸的な美
●近世日本の4段階
朱子学の当為から実在へと、反朱子学の実在から当為へを、前提にすると、近世日本の朱子学→仁斎学→徂徠学→宣長学の変遷は、次のように、まとめることができます。
◎朱子学:一元的世界観:公私未分化(天地自然と人が連続=天人合一、個人と家・国が連続)
・1:太極は宇宙の根源・天地自然の理(天理)で絶対
・2:人は天地自然の一部なので、人性(人が生まれ持つ本来の性質)に天理が内在(性即理、『中庸』)
・3:天地自然の理は上下の理なので、人も上下(尊卑・貴賤)の自然秩序が優先(名分)
・4:曇った気質の性を修養(居敬)+道徳(『論語』5常・『孟子』5倫)で晴らし、本然の性に回復
[先] 外面=物:理(太極)、格物・致知‐誠意・正心・修身‐斉家‐治国・平天下(『大学』)
[後] 内面=心:気(気質の性)、性(本然の性)
‐超越物:太極=天理
‐内在:人性=天理
↓…[批判]天地自然と人間社会は貫通しない
○仁斎学>朱子学
・朱子学=天人合一:天理が人性に内在(性即理)
・仁斎学:天人分離:天の道理(天理・天道)と人が生まれ持つ本来の性質(人性)・儒教道徳(人道)は別物
↓
◎仁斎学=孔孟の道:私的人倫(天地自然と人が断絶、個人と家・国がやや連続)
・1:よい人間関係のために、個人の儒教道徳(仁義礼智)が優先
・2:語孟(『論語』『孟子』)の中の聖人・君子の儒教道徳が必要
・3:儒教道徳を家・国の政治制度(家政・国政)に反映(徳治→法治)
・4:政権に参画する正当性が、君子(徳のある人)にはあり、小人(徳のない人)にはない
[先]内面=心:道徳(語孟)
[後]外面=物:制度
‐外在:徳目
↓…[批判]個人の道徳は、主観的で基準が曖昧なので、各自が積み重ねても、国の政治はよくならない
○徂徠学>仁斎学
・仁斎学=思想(内面)が優先:有徳者=聖人・君子 ~ 道徳(仁義礼智):主観的、基準が曖昧
・徂徠学=形式(外面)が優先:制度の作為者=聖人 ~ 制度(礼楽刑政):客観的、基準が明確
↓
◎徂徠学=先王の道:公的政治(天地自然と人が断絶、個人と国が断絶 → すべて作為)
・1:治国・平天下・安民のために、国の政治制度(礼楽刑政)が優先
・2:6経(『詩』『書』『礼』『楽』『易』『春秋』)の中の聖人(先王)の政治制度が必要
・3:政治制度を儒教道徳で担保
・4:人性は気が質的に不変・量的に変化し、多様な徳になるので、政治・文芸で技能の個性を発揮
[先] 外面=物:制度・事跡(6経)
[後] 内面=心:道徳・感情
→道徳系(経学派)の徂徠の弟子=公的政治(礼楽刑政):太宰春台
→感情系(詩文派)の徂徠の弟子=私的文芸(詩書礼楽):服部南郭
‐超越者:聖人
↓…[批判]中国の帝王(聖人)は、国家を武力で簒奪し、儒教道徳・政治制度で支配したにすぎない
↓…[批判]儒教道徳は、極少数の治者(君子)には必要だが、大多数の被治者(小人)には不要
○宣長学>儒学
・儒学:中国の帝王=徳(内面の思想)の継承が優先→徳は主観的→理知的な建前を表現すべき
・宣長学:日本の天皇=血(外面の形式)の継承が絶対→血は客観的→感情的な本音を表現できる
↓
◎宣長学=神の道:私的文芸(公的政治と私的文芸の断絶、神と日本人が連続)
・1:日本古来の純真な感情(物の哀れを知る心=大和心)が優先
・2:古典文学(和歌・『源氏物語』『古事記』)から漢意(からごころ)を除去し、大和心を回復
・3:『古事記』は天皇が口誦伝承・編纂命令し、大和心が表現されているので神聖化
・4:万世一系の天皇が統治する日本を優越化(理由説明は漢意なので、霊妙・奇異な神の仕業に)
・5:世間ですぐに宣長学が受容されず、儒仏老荘が受容されるのに同情・共感すれば、物の哀れを知ることになり、思い通りにならず仕方ないと達観するのは、神の仕業
[先] 外面=物:事跡(古典文学)
[後] 内面=心:感情
‐内在:大和心
‐超越者:神
このうち、徂徠学は、弟子が公的政治の継承と私的文芸の派生に分岐しており、公的政治は、後世に日本政治思想史学者の丸山真男が取り上げ、私的文芸は、宣長学に近似し、後世に文芸批評家の小林秀雄が取り上げています。
[参照:丸山真男の本意]
また、宣長学が、漢意を除去せよと主張したのは、第1に、古典文学には、勧善懲悪・因果応報等の教訓や、輪廻転生・極楽往生等の世界観等の、儒教的・仏教的要素も混入しているからで、政治・宗教等から、文学を独立させようとしました。
第2に、帝位・王位・皇位の正統性の根拠が、中国の歴代帝王は、曖昧な徳なので、理知的な建前で歴史を表現すべきとなり、装飾・潤色につながる一方、日本の歴代天皇は、明確な血なので、感情的な本音で神話・歴史を表現できたため、善も悪も、活き活きと記述したからです。
徳という内面の思想が要求される中国では、そこに内面の感情を持ち込んでも、思想が感情を優越しますが、血という外面の形式が要求される日本では、そこに内面の感情(空気もそのひとつ)が入り込みやすいのです。
そうして、宣長は、中国由来で、作為・合理的なので、言葉で説明できる、思想による儒の道とは対照的な、日本由来で、自然・非合理的なので、言葉で説明できない、形式による神の道(神の仕業)を提示しました。
[参照:信仰・思考パターンとしての超越と内在]