荻生徂徠「弁道」読解2~(4)-(6) | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

(4)

・先王之道、先王所造也。非天地自然之道也。蓋先王以聡明睿知之徳、受天命、王天下。其心一以安天下為務。是以尽其心力、極其知巧、作為是道、使天下後世之人由是而行之。豈天地自然有之哉。

 

[先王の道は、先王の造る所なり。天地自然の道にあらざるなり。けだし先王、聡明・睿知の徳をもって、天命を受け、天下に王たり。その心は、一(いつ)に、天下を安んずるをもって務めと為(な)す。ここをもって、その心、力を尽くし、その知巧を極め、この道を作為して、天下後世の人をして、これに由(よ)りて、これを行わしむ。あに天地自然にこれあらんや。]

 

《先王の道は、先王が建造することなのだ。天地自然の道ではないのだ。思うに、先王は賢明・英知の徳によって、天命を受け、天下の王になった。その(先王の)心は、ひとつで、天下を安寧にすることを務めとする。こういうわけで、その(先王の)心は、力を尽くし、その智巧を極め、この(先王の)道を作為して、天下の後世の人に、これ(先王の心)によって、これ(天下を安寧にすること)を行わさせる。どうして天地自然がここにあるのか(いや、ない)。》

 

※道

 ・徂徠学:先王の道=作為、聡明(賢明)・睿知(英知)の徳で天命を受けた先王の心で天下を安らかにする

 ・朱子学:天地自然の道

 

・伏羲神農黄帝亦聖人也。其所作為、猶且止於利用厚生之道。歴顓頊帝嚳、至於尭舜、而後礼楽始立焉。夏殷周而後粲然始備焉。是更数千年、更数聖人之心力知巧而成焉者、亦非一聖人一生之力所能弁焉者。故雖孔子亦学而後知焉。而謂天地自然有之而可哉。

 

[伏羲(ふくぎ)・神農(しんのう)・黄帝(こうてい)も、また聖人なり。その作為する所は、なおかつ利用厚生の道に止(とど)まる。顓頊(せんぎょく)・帝嚳(ていこく)を歴(へ)て、尭・舜に至り、しかる後に礼楽始めて立つ。夏(か)・殷・周よりして後、粲然(さんぜん)として始めて備わる。これ数千年を更(へ)、数聖人の心・力・知巧を更て成る者にして、また一聖人、一生の力のよく弁ずる所の者にあらず。ゆえに孔子といえども、また学んでしかる後に知る。しかして天地自然にこれありといいて可ならんや。]

 

《伏羲・神農・黄帝(3人とも古代中国の伝説上の帝王)も、また聖人なのだ。その作為したことは、それでもまだ利用・厚生(便利な物で生活を豊かにすること)の道にとどまった。顓頊・帝嚳(高辛、2人とも古代中国の伝説上の帝王)を経て、尭・舜(2人とも古代中国の伝説上の帝王)に至って、はじめて、礼楽が成立した。夏・殷・周以後、光り輝くように、(礼楽を)はじめて整備した。それから数千年を経て、数人の聖人の心・力・智巧を経て成立したもので、また、一人の聖人の一生の力が、充分に弁別するものではない。よって、孔子といっても、また、学んで、はじめて、知る。そうして、天地自然にこれ(作為)があるというのは可な(よい)のか(いや、ダメだ)。》

 

※聖人の作為の変遷:天地自然でない

 ・3皇=伏羲・神農・黄帝=聖人:利用厚生(便利な物で生活を豊かにすること)の道まで

 ・3帝=(少昊)・顓頊・帝嚳

 ・2典=尭・舜:礼楽をはじめて成立

 ・3代=夏・殷・周:(礼楽を)はじめて整備

※孔子:作為を学んで知った

 

・如中庸曰率性之謂道、当是時、老氏之説興、貶聖人之道為偽。故子思著書、以張吾儒、亦謂先王率人性而作為是道也。非謂天地自然有是道也。亦非謂率人性之自然不仮作為也。辟如伐木作宮室。亦率木性以造之耳。雖然、宮室豈木之自然乎。大氐自然而然者、天地之道也。有所営為運用者、人之性也。後儒不察、乃以天理自然為道。豈不老荘之帰乎。

 

[中庸に「性に率(したが)うを、これ道という」というがごときは、この時に当(あた)りて、老氏の説、興(おこ)り、聖人の道を貶(おとし)めて偽(いつわ)りと為(な)す。ゆえに子思、書を著(ちょ)して、もって吾(わ)が儒を張り、また先王、人の性に率いて、この道を作為すというなり。天地自然にこの道ありというにあらざるなり。また、人の性の自然に率いて作為を仮らずというにもあらざるなり。辟(たと)えば木を伐(き)りて宮室を作るがごとし。また、木の性に率いて、もってこれを造るのみ。しかりといえども、宮室はあに木の自然ならんや。大氐(たいてい)、自然にして、しかる者は、天地の道なり。営為・運用する所ある者は、人の性なり。後儒、察せず、すなわち天理自然をもって道と為す。あに老・荘の帰ならずや。]

 

《『中庸』の「本性(生まれ持った本来の性質)にしたがう、これを道という」というようなものは、この時代にあたって、老子の説がおこり、聖人の道をけなして偽りとする。よって、子思は、書物(『中庸』)を著作して、それでわが儒学を主張し、また、先王は、人の本性にしたがって、この道を作為するといったのだ。天地自然に、この(聖人作為の)道があるというのではないのだ。また、人の本性の自然にしたがって、作為を借りないということもないのだ。例えば、木を切って、宮室を作るようなものだ。また、木の性質にしたがって、それでこれ(宮室)を作るのだ。そうはいっても、宮室は、どうして木の自然なのか(いや、自然でない)。たいてい、自然でそのようなものは、天地の道なのだ。営為・運用することがあるものは、人の本性だ。後世の儒学(朱子学)者は、(これを)推察せず、つまり天理自然によって道とした。どうして老子・荘子の思想に帰着しないのか(いや、帰着する)。》

 

※子思:<反論>老子の説に対抗=『中庸』の儒学

 ・道=性(生まれ持った本来の性質)にしたがう

 ・先王の道=作為の道:人の性にしたがった営為・運用で作為する(天地自然の道でない)

  ← 自然な人の性に、ただしたがうだけではなく、作為を借りることもある

 ・<比喩>木を切って宮室を作る

  ‐木=自然(天地の道)

  ‐宮室=作為(木の自然でない):木の性質にしたがった営為・運用で(=自然を借りて)作る

※朱子学:天理自然の道 → 老子・荘子に帰着(徂徠が批判)

※老子:天地自然の道、<批判>聖人の道=偽り

 

 

(5)

・先王聡明睿知之徳、稟諸天性。非凡人所能及焉。故古者無学為聖人之説也。蓋先王之徳、兼備衆美、難可得名。而所命為聖者、取諸制作之一端耳。先王開国、制作礼楽。是雖一端、先王之所以為先王、亦唯是耳。若唯以其在己之徳、則無天子之分矣。若以平治天下之仁命之、則後賢王皆爾。制作礼楽、是其大者、故以命先王之徳爾。其実聖亦一徳。如書曰乃聖乃文、詩曰聖敬日躋、及周礼六徳、聖居其三、是豈先王の徳之全哉。然既已以命先王之徳、自此之後、聖人之名、莫以尚焉。

 

[先王の聡明・睿知の徳は、これを天性に稟(う)く。凡人のよく及ぶ所にあらず。ゆえに古者(いにしえ)は学んで聖人となるの説なきなり。けだし先王の徳は、衆美を兼備し、名づくるを得べきことがたし。しかして命(なづ)けて聖と為(な)す所の者は、これを制作の一端に取るのみ。先王、国を開き、礼楽を制作す。これ一端なりといえども、先王の先王為(た)る所以(ゆえん)は、またただこれのみ。もし、ただその己(おのれ)に在(あ)るの徳をもって、するのみならば、すなわち天子の分なし。もし、天下を平治するの仁をもって、これを命くるときは、すなわち後の賢王、皆しかり。礼楽を制作するは、これその大なる者、ゆえにもって先王の徳に命けしのみ。その実は、聖もまた一徳なり。書に「すなわち聖、すなわち文」といい、詩に「聖・敬、日(ひび)に躋(のぼ)る」といい、および周礼の六徳、聖その三に居(お)るがごとき、これあに先王の徳の全(すべて)ならんや。しかれどもすでにもって先王の徳に命けたれば、これよりの後、聖人の名は、もってこれに尚(くわ)うるなし。]

 

《先王の賢明・英知の徳は、これを天性で受ける。凡人が充分に及ぶものでない。よって、昔は、学んで聖人になる説がなかったのだ。思うに、先王の徳は、様々な美(美徳)を兼ね備え、名づけ得ることができにくかった。そうして、命名して聖とするものは、これが制作の一端緒で取り上げたのだ。先王は、建国して、礼楽を制作した。これが一端緒なのだといっても、先王の先王である理由は、また、ただこれ(礼楽の制作)だけだ。もし、ただそれが自己に存在する徳によって、(礼楽を制作)するだけならば、つまり天子の本分(資格)がない。もし、天下を平らかに治める仁によって、これ(聖)を命名するならば、つまり後世の賢王は皆、そうなる(聖人に該当する)。礼楽を制作することは、これがその偉大なもので、よって、それで先王の徳に命名するのだ。その実は、聖も、また、ひとつの徳なのだ。『書経』では、「つまり聖(つまり神、つまり武)つまり文」といい、『詩経』では、「聖・敬は、日々(高く)登る」といい、『周礼』の6徳(知・仁・聖・義・忠・和)では、聖がその3番目に位置するようなものは、これ(聖)がどうして先王の徳のすべてであろうか(いや、すべてでない)。これ以後、聖人の名は、それでこれに加えることがない(最高の名称となった)。》

 

※徂徠学:聖人の条件=大(偉大)なる先王の徳+礼楽の制作

 ・昔の聖=「何・誰であるか」に特化(狭義の聖):聖の命名=先王のみ、学んで聖人に至る説なし

 ・今の聖=「何をしたか」に特化(広義の聖):聖の命名=礼楽の制作の一端(一方面)に拡大解釈

 ・先王=聡明(賢明)・睿知(英知)の徳:天性から稟(受)ける、衆(多くの)美を兼備、命名困難

※聖=一徳(徳の一部) → 聖人の名=君子(徳のある立派な人)の中で最高の名称

 ・自己の徳で礼楽の制作:天子の分(本分)でない(天子側近の君子でも可能)

 ・仁(徳)で天下を平定・統治:賢王でも可能

 

・至於子思推孔子之為聖、而孔子無制作之迹、又極言道率人性、則不得不言聖人可学而至矣。故以誠語聖也。至於孟子勧斉梁王、欲革周命、則不得不以聖人自処矣。以聖人自処、而尭舜文周嫌於不可及矣。故旁引夷恵、皆以為聖人也。子思去孔子不遠。流風未泯。其言猶有顧忌。故其称聖人、有神明不測之意。若孟子即止言行一不義殺一不辜而得天下不為也。是特仁人耳。非聖人也。要之孟子亦去孔子不甚遠。其言猶有斟酌者若此。祇二子急於持論、勇於救時、辞気抑揚之間、古義藉以不伝焉。可嘆哉。

 

[子思(しし)に至りて、孔子の聖為(た)るを推(お)せども、孔子に制作の迹(あと)なく、また道は人の性に率(したが)うことを極言したれば、すなわち聖人は学んで至るべしといわざるを得ず。ゆえに誠をもって聖を語りしなり。孟子に至りて、斉・梁の王に勧め、周の命を革(あらた)めんと欲したれば、すなわち聖人をもって自(みずか)ら処(お)らざるを得ず。聖人をもって自ら処れども、尭・舜・文・周、及ぶべからざるに嫌いあり。ゆえに旁(ひろ)く夷(い)・恵(けい)を引きて、皆もって聖人となせしなり。子思は、孔子を去ること遠からず。流風いまだ泯(ほろ)びず。その言(げん)に、なお顧忌(こき)あり。ゆえにその聖人を称するは、神明不測の意あり。孟子のごときは、すなわち「一不義を行い、一不辜(こ)を殺して天下を得るはなさざるなり」というに止(とど)まる。これ特(ただ)仁人のみ。聖人にあらざるなり。これを要するに、孟子もまた孔子を去ること甚(はなは)だしくは遠からず。その言に、なお斟酌(しんしゃく)ある者(こと)、かくのごとし。祇(ただ)二子は論を持するに急にして、時を救うに勇みたれば、辞気抑揚の間、古義に藉(よ)りてもって伝わらず。嘆(なげ)くべきかな。]

 

《子思(孔子の孫)に至って、孔子が聖だとすることを推挙しても、孔子に(礼楽の)制作の痕跡がなく(『論語』7-148)、また、道は人の本性にしたがうことを極言したので、つまり聖人は学んで至ることができるといわざるをえない。よって、誠によって、聖を語るのだ。孟子(子思の孫弟子)に至って、斉・梁の王に勧告し、周の命名(評価)を改めようとしたので、つまり聖人を(孟子が)自分で名乗らざるをえなかった(『孟子』4-45)。聖人を自分で名乗れば、尭・舜(2人は古代中国の伝説上の帝王)・文王(殷末期の周の君主)・周公旦(文王の息子)には、及ぶことができない傾向があった。よって、広く伯夷(はくい、殷末期の孤竹/こちく国の王子の兄、弟は叔斉/しゅくせい)・柳下恵(りゅうかけい、魯の裁判官)を引き入れて、皆、それで聖人にしたのだ。子思は、孔子を離れ去ることが遠くない。(孔子の)気風が、まだ消滅していない。その(子思の)言葉には、なおも遠慮がある。よって、それ(子思)を聖人と称するのは、神秘で測り知れない意思がある。孟子のようなものは、つまり「一度でも不義を行い、一度でも罪のない人を殺してまで、天下を得ることはしないのだ」(『孟子』3-25)というのにとどまる。これは、ただ仁人だけだ。聖人ではないのだ。これは、要するに、孟子も、また、孔子を離れ去ることがひどく遠くない。その(孟子の)言葉には、なおも手加減があることは、このようだ。ただ2人は、持論を急にして、時勢を救おうと勇んだので、(聖の)言葉づかいの解釈を狭義にするか広義にするかの間で、古義に頼ってそれで伝わらなかった。嘆くべきだな。》

 

※子思=聖人:神明不測の意(神秘的で測り知れない意思)あり(徂徠の評価)

 ・孔子=聖と推した(推挙) → 制作の迹(痕跡)なし

 ・道=性にしたがう → 学んで聖人に至る説を主張:誠で聖を語る

※孟子=仁人(聖人でない)(徂徠の評価)

 ・聖人を自称 → 尭・舜・文王・周公旦より格下なので嫌気 → 伯夷・柳下恵も聖人に引き入れ

 ・孔子=聖

 

・蓋後王君主、奉先王礼楽而行之、不敢違背。而礼楽刑政、先王以是尽於安天下之道。是所謂仁也。後王君子、亦唯順先王礼楽之教、以得為仁人耳。是聖人不可学而至焉、仁人可学而能焉。孔子教人以仁、未嘗以作聖強之、為是故也。大氐後人信思孟程朱、過於先王孔子。何其謬也。

 

[けだし後王・君主は、先王の礼楽を奉じてこれを行い、あえて違背(いはい)せず。しかして礼楽刑政は、先王これをもって天下を安んずるの道を尽くせり。これいわゆる仁なり。後王・君子もまた、ただ先王の礼楽の教えに順(したが)いて、もって仁人為(た)ることを得しのみ。これ聖人は、学んで至るべからず、仁人は、学んでよくすべし。孔子、人に教うるに仁をもってし、いまだかつて聖と作(な)るをもって、これに強(し)いざりしは、これがためのゆえなり。大氐(たいてい)、後人は思・孟・程・朱を信ずること、先王・孔子に過(す)ぐ。何ぞその謬(あやま)れるや。] 

 

《思うに、後世の帝王・君主は、先王の礼楽を奉戴して、これ(礼楽)を行い、あえて違反しない。そうして、礼楽刑政は、先王がこれによって、天下を安寧にする道を尽くす。これは、いわゆる仁だ。後世の帝王・君主も、また、ただ先王の礼楽の教えにしたがっているだけで、それで仁の人になることを得るのだ。これで聖人は、学んで至ることはできず、仁の人は、学んで充分に(礼楽刑政)すべきだ。孔子は、人に教えるのに、仁によってし、今まで一度も聖となることを、これ(人)に強制しなかったのは、これのためだからなのだ。たいてい、後世の帝王は、子思・孟子・程子(程顥+程頤兄弟)・朱子を信じることが、先王・孔子を過ぎている。どうしてそのように誤るのか。》

 

※徂徠学:先王・孔子を重視、子思・孟子・程子・朱子を軽視

 ・先王:礼楽刑政で天下を安らかにする道を尽くす=仁 → 聖人=学んで至ることはできない

 ・後王(後世の帝王)・君主:先王の教えを謹んで行う → 仁人:学んで充分に礼楽刑政すべき

 ・孔子:仁で人に教えるが、聖になるのを強いらない

 

 

(6)

・後儒多強学者、以高妙精微凡人所不能為者、而曰聖人以是立極也。妄矣哉。先王立極、謂礼也。漢儒訓極為中。礼者所以教中也。又解中庸書而謂子思説礼意矣。其説雖未当、要之去古未遠、師弟所伝授、古義猶存者爾。蓋先王制礼、賢者俯而就之、不肖者企而及之。是所謂極也。是凡人所能為者也。不爾、務以凡人所不能為者強之、是使天下之人絶望於善也。豈先王安天下之道哉。故所謂事理当然之極、及変化気質、学為聖人類、皆非先王孔子之教之旧矣。近世伊氏能知其非是、而逎以孝弟仁義謂為規矩準縄。果若是乎、則人人自以其意為孝弟仁義也。亦何所準哉。可謂無寸之尺、無星之称已。

 

[後儒多くは、学者に強(し)うるに、高妙・精微、凡人の為(な)すこと能(あた)わざる所の者をもってし、しかして聖人これをもって極を立つというなり。妄なるかな。先王、極を立つとは、礼をいうなり。漢儒は極を訓じて中(ちゅう)と為す。礼なる者は中を教うる所以(ゆえん)なり。また、中庸の書を解して、子思、礼の意を説くという。その説いまだ当たらずといえども、これを要するに、古(いにしえ)を去ること、いまだ遠からず、師弟の伝授する所、古義のなお存する者しかり。けだし先王、礼を制し、賢者は俯してこれに就き、不肖者は企(つまだ)ちてこれに及ぶ。これいわゆる極なり。これ凡人のよく為す所の者なり。しからずして、務めて凡人の為すこと能わざる所の者をもってこれに強(し)うるは、これ天下の人をして望みを善に絶(た)たしむるなり。あに先王の天下を安んずるの道ならんや。ゆえにいわゆる「事理当然の極」、および「気質を変化す」、「学んで聖人と為る」の類は皆、先王・孔子の教えの旧にあらず。近世、伊氏、よくその是(ぜ)にあらざるを知れども、逎(すなわち)孝弟仁義をもっていいて、規矩準縄(きくじゅんじょう)と為す。果たしてかくのごとくならんか、すなわち人人、自(みずか)らその意をもって孝弟仁義と為すなり。また何の準とする所ぞや。無寸の尺、無星の称をいうべきのみ。]

 

《後世の儒学者の多くは、学ぶ者に(聖になることを)強制し、立派・精緻で、凡人がすることのできないものをして、そうして、聖人は、これを「極を確立する(立極)」というのだ。妄想だな。先王の「極を確立する」は、礼をいうのだ。漢代の儒学者は、極を注釈して中とする。礼なるものは、中を教える理由なのだ。また、『中庸』の書物を解釈して、子思は、礼の意味を説明したという。その説はまだ適当でないといっても、これは、要するに、昔を離れ去ることは、まだ遠くなく、師弟の伝授することで、古義がなおも存在するものは、この(孔子と子思・孟子の関係の)ようである。思うに、先王は、礼を制御し、賢者は、ヒレ伏して、これ(礼)につきしたがい、不賢者は、ツマ先立ちして、これ(礼)に及ぶ。これが、いわゆる極なのだ。これは、凡人が充分にするものなのだ。しかし、務めて、凡人のすることができないものを、これ(凡人)に強制させるのは、これが天下の人に善を絶望させるのだ。どうして先王が天下を安寧にする道になるのか。よって、いわゆる「事の理が当然の極」・「気質を変化する」・「学んで聖人となる」の同類は、すべて、先王・孔子の教えの旧説でない。近頃、伊藤仁斎は、充分にそれが是で(正しく)ないと知っていたが、つまり孝悌・仁義をいって、評価基準とした。本当に、このようになるのか、つまり誰も彼も、自分で、その意思を孝悌・仁義とするのだ。また、何が準拠とすることなのか。長さ目盛りのない定規、重さ目盛りのない天秤(てんびん)ということができるのだ。》

 

※旧説:先王・孔子の教え

 ・先王:立極(極を立つ)=礼を制す(制御)

  → 賢者:礼に俯(ヒレ伏)して就く(つきしたがう)、不肖(不賢)者:礼に企ちて(ツマ先立ちし)て及ぶ

 ・孔子:聖になるのを強いらない

 ・徂徠学:評価基準(目盛り)明確=礼楽刑政:制度は天下の人皆が対象(分断なし)

※仁斎学:規矩準縄(評価基準、目盛り)曖昧=孝悌・仁義:徳行は君子が対象→小人(凡人)と分断

※新説:後世の儒学(孟子以降 ← 徂徠の評価は、先王・孔子・子思までが聖人、孟子からは仁人)

 ・学ぶ者に聖になるのを強いる → 天下の人に善を絶望させる(先王の天下を安らかにする道でない)

 ・聖人=立極(極を立つ):極=礼=中(中庸)

 ・朱子学:事の理が当然の極(理・本質=太極)、気質を変化する(気・現象=陰陽)

 

 

(つづく)