伊藤仁斎「語孟字義」下・読解1~忠信 | ejiratsu-blog

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(つづき)

 

 

■下巻

 

 

●忠信:5条

 

 

○1条

・程子曰、尽己之謂忠、以実之謂信。皆就接人上言。夫做人之事、如做己之事、謀人之事、如謀己之事、無一毫不尽、方是忠。凡与人説、有便曰有、無便曰無、多以為多、寡以為寡、不一分増減、方是信。又忠信二字、有朴実不事文飾之意。所謂忠信之人、可以学礼。是也。又信字、有与人期約而践其実之意。論語集註曰、信、約信也。古人有信如四時、信賞必罰等語、皆此意。

 

[程子(ていし)いわく、「己(おのれ)を尽くす、これを忠という。実をもってする、これを信という」。皆、人に接(まじ)わる上に就(つ)いていう。それ人の事を做(な)すこと、己が事を做すがごとく、人の事を謀(はか)ること、己が事を謀るがごとく、一毫(いちごう)の尽くさざるなき、まさにこれ忠なり。およそ人と説く、あれば、すなわちありといい、なければ、すなわちなしといい、多きは、もって多きとし、寡(すく)なききは、もって寡なきとし、一分も増減せず、まさにこれ信なり。また、忠信の二字、朴実(ぼくじつ)・文飾を事とせざるの意あり。いわゆる「忠・信の人は、もって礼を学ぶべし」と、これなり。また、信の字、人と期約して、その実を践(ふ)むの意あり。論語集註にいわく、「信は、約信なり」。古人、「信、四時(しいじ)のごとく」、「信賞必罰」等の語あり。皆この意なり。]

 

《程顥(ていこう)+程頤(ていい)兄弟(中国・北宋の儒学者)がいう、「自己を尽くす、これを忠という。実によってする、これを信という」。皆、人と接する上についていう。それは、人の事をなすことを、自己が事をなすようにし、人の事を考えることを、自己の事を考えるようにし、わずかも尽くさないことがない、まさにこれが忠だ。そもそも人と話すのに、あれば、つまりあるといい、なければ、つまりなしといい、多ければ、それで多いとし、少なければ、それで少ないとし、わずかも増減しない、まさにこれが信だ。また、忠・信の2字は、素朴で装飾を役目としない意味がある。いわゆる「忠・信の人は、それで礼を学ぶことができる」は、これだ。また、信の字は、人と約束して、それを実践する意味がある。(朱子の)『論語集注』によると、「信は、信頼できる約束だ」。昔の人の「信は、四季のようだ」、「信賞必罰(必ず、功があれば賞し、罪があれば罰すること)」等の語句がある。すべて、この意味だ。》

 

※忠・信:朴実(素朴)、文飾(装飾)なし、礼を学べる

 ・忠:自己を尽くす(他人事も自分事に)

 ・信:実によってする(虚偽の増減なし)、人と期約(約束)+実践、約信(信頼できる約束)

 

 

○2条

・忠信、学之根本、成始成終。皆在於此。何者、学問以誠為本。不誠無物。苟無忠信、則礼文雖中、儀刑雖可観、皆偽貌飾情、適足以滋奸添邪。論語曰、主忠信。主与賓対。言学問必不可不以忠信為主。又曰、子以四教。文行忠信。程子曰、四者以忠信為本。是知主忠信、乃孔子之家法、而万世学者、皆当守之而不可換其訓。而後世或以持敬為宗旨、或以致良知為宗旨、而未有以忠信為主。亦異夫孔門之学矣。故雖学問可観、然其徳卒不及于古人者、実以此也。

 

[忠・信は学の根本、始めを成し終りを成す。皆ここに在(あ)り。何ぞなれば、学問は誠をもって本(もと)とす。誠ならざれば物なし。いやしくも忠・信なきときは、すなわち礼文、中(あた)るといえども、儀刑、観るべしといえども、皆、偽貌飾情(ぎぼうしょくじょう)、まさにもって奸(かん)を滋(ま)し邪を添うるに足る。論語にいわく、「忠信を主とす」。主、賓(ひん)と対す。言うに、学問、必ず忠・信をもって主とせずんばあるべからず。またいわく、「子、四をもって教ゆ。文・行・忠・信なり」と。程子(ていし)いわく、「四つの者は忠・信をもって本とす」。ここに知る「忠・信を主とす」は、すなわち孔子の家法にして、万世学者、皆まさにこれを守って、その訓を換(か)うべからざるべし。しかして後世は、あるいは持敬をもって宗旨とし、あるいは致良知をもって宗旨として、いまだ忠・信をもって主とすることあらず。また、かの孔門の学と異なり。ゆえに学問観るべしといえども、しかれども、その徳、ついに古人に及ばざる者は、実にこれをもってなり。]

 

《忠・信は学問の根本で、始めをなし、終りをなす。すべてここにある。なぜならば、学問は誠を根本とする。誠でなければ、物はない。もしも、忠・信がなければ、つまり礼儀が適切だといっても、模範を見るべきだといっても、すべて偽飾の表情で、まさにそれで悪を増やし、邪を添えて加える。『論語』によると、「忠・信を主とする」(1-8、9-229、12-288)。主は賓(客)と対になる。いうに、学問は必ず忠・信を主としないべきではない(主とすべきだ)。また(『論語』で)いう、「孔子は、4つを教えた。学問・行動・忠・信だ」(7-171)。程顥(ていこう)+程頤(ていい)兄弟(中国・北宋の儒学者)がいう、「4つは、忠・信を根本とする」。ここで知る「忠・信を主とする」は、つまり孔子の独特の方法で、長く続く時代で学ぶ者は皆、当然これを守って、その読みを変えないべきだ。そして、後世には、あるいは持敬(意識集中の修養法)を中心教義としたり(朱子学)、あるいは致良知(心を正して知を致すこと、格物致知=物を極めて知を致すこと)を中心教義として(陽明学)、まだ忠・信を主としていない。また、あの孔子門下の学問と異なる。よって、学問を見るべきだといっても、しかし、その徳が、ついに昔の人に及ばないものは、実にこれ(持敬・致良知)によってだ。》

 

※忠・信:学問の根本、学問=誠が本(根本)

 ・孔子の学問:忠・信が主

 ・朱子学:誠あり→物あり→格物+持敬(意識集中の修養法) → 忠・信が主でない(仁斎が批判)

 ・陽明学:致良知(心を正して知を致すこと) → 忠・信が主でない(仁斎が批判)

 

 

○3条

・宋儒之意、以為主忠信甚易事、無難行者。故別撰一般宗旨、為之標榜、以指導人。殊不知、道本無難知者。只是尽誠為難。苟知誠之難尽、則必不能不以忠信為主。易曰、忠信所以進徳也。故学雖至於聖人、亦不外忠信。視其貌、則儼然儒者矣。而察其内、則好勝務外之心、不知不覚、常伏于胸中。是信知持敬、而不以忠信為要故也。学者不容不深弁。

 

[宋儒の意、おもえらく、忠・信を主とするは、甚(はなは)だ易(やす)き事、行いがたき者なしと。ゆえに別に一般の宗旨を撰(えら)んで、これが標榜となして、もって人を指導す。殊(た)えて知らず、道もと知りがたき者なし。ただこれ誠を尽くしがたしとす。いやしくも誠の尽くしがたきことを知るときは、すなわち必ず忠・信をもって主とせざること能(あた)わず。易にいわく、「忠・信は徳に進むゆえんなり」。ゆえに学、聖人に至るといえども、また忠・信に外(ほか)ならず。その貌(ぼう)を視るときは、すなわち儼然(げんぜん)たる儒者なり。しかしてその内を察するときは、すなわち勝ちを好み外を務むるの心、知らず覚らず、常に胸中に伏す。これ信に持敬することを知って、忠・信をもって要(よう)とせざるがゆえなり。学者深く弁ぜずんば、容(ゆる)さず。]

 

《宋代の儒学者の意味において、思うに、忠・信を主とするのは、とても容易なことで、行いにくいものではない。よって、別に一般の中心教義を選んで、これを標榜して、それで人を指導する。意外にも、道が元々知りにくいものではないとは、知らない。ただこの誠を尽くしがたいとする。もしも、誠が尽くしがたいことを知れば、つまり必ず忠・信を主としないべきでない(主としないわけにはいかない)。『易経』によると、「忠・信は、徳に進むためだ」。よって、学問は、聖人に至ったといっても、やはり忠信に他ならない。その(外側の)容貌をみれば、つまり威厳のある儒学者だ。そして、その内側を推察すれば、つまり勝ちを好み、外側を務める心が、知らず覚らず、常に胸の中に潜伏している。これは、本当に持敬することを知って、忠・信を重要としないからだ。学ぶ者が、深く弁別しないのを許さない。》

 

※朱子学:忠・信が主=行いやすい→持敬を知る→勝ちを好み外を務める心が胸中に伏す(仁斎が批判)

※仁斎学:道=知りやすい、誠=尽くしがたいと知る→忠・信を主とする→徳に進む

 

 

○4条

・忠自是忠、信自是信。故有専言忠者、有専言信者。而夫子之四教、以文行忠信並言。則忠与信本是両事益明矣。而先儒以謂忠与信若形影然。又曰、忠信只是一事、而相為内外本末終始。蓋未深考焉耳。

 

[忠は自ずからこれ忠、信は自ずからこれ信なり。ゆえにもっぱら忠をいう者あり、もっぱら信をいう者あり。しかして夫子(ふうし)の四教、文・行・忠・信をもって並べいう。すなわち忠と信と、もとこれ両事なること、ますます明らかなり。しこうして先儒おもえらく、忠と信と形影のごとくしかりと。またいわく、「忠信はただこれ一事、しかして内外・本末・終始を相なす」と。けだし、いまだ深く考えざるのみ。]

 

《忠は自ずから、これが忠で、信は自ずから、これが信だ。よって、とりわけ忠をいう者があり、とりわけ信をいう者がある。そして、(孔子)先生の4つの教えは、学問・行動・忠・信を並べていう(『論語』7-171)。つまり、忠と信は元々、この2つの事なのが、ますます明らかだ。そして、先代の儒学者は、思うに、忠と信を形とその影の一体のように、そうした。またいう、「忠信は、ただこれ1つの事で、そして内外・本末・終始を相互になす」。(これらは、)思うに、まだ深く考えていない。》

 

※仁斎学:忠と信は別々、孔子の4教=文(学問)・行(行動)・忠・信

※朱子学:忠信一体(形と影、内外・本末・終始) → 深く考えていない(仁斎が批判)

 

 

○5条

・学有本体、有修為。本体者、仁義礼智、是也。修為者、忠信敬恕之類、是也。蓋仁義礼智、天下之達徳。故謂之本体。聖人教学者由此而行之。非待修為而後有也。忠信敬恕、力行之要、就人用功夫上立名。非本然之徳。故謂之修為。

 

[学に本体あり、修為あり。本体は、仁義礼智、これなり。修為は、忠信敬恕の類、これなり。けだし仁義礼智は、天下の達徳、ゆえにこれを本体という。聖人、学者をして、これに由(よ)ってこれを行わしむ。修為を待って、しかる後に、あるにあらず。忠信敬恕は、力行(りっこう)の要(よう)、人、功夫(くふう)を用うる上に就(つ)いて名を立つ。本然の徳にあらず。ゆえにこれを修為という。]

 

《学には、本体があり、修為がある。本体は、仁義礼智で、これだ。修為は、忠信敬恕の種類で、これだ。思うに、仁義礼智は、天下の一般的に行われるべき徳で、よってこれ(仁義礼智)を本体という。聖人は、学ぶ者に、これ(仁義礼智)によって、これ(徳)を行わせる。修為を待って、その後に、(本体が)あるのではない。忠信敬恕は、努力して行うのに重要で、人は工夫を用いる上について、名を確立する。本来の徳ではない。よって、これを修為という。》

 

※学:本体+修為、修為が先・本体が後でない

 ・本体:仁義礼智=天下の達徳(一般的に行われるべき徳)

 ・修為:忠信敬恕=力行の要(努力して行うのに重要)、本然(本体)の徳でない

 

 

(つづく)