荻生徂徠「弁名」上・読解1~緒言 | ejiratsu-blog

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近世日本の朱子学・仁斎学・徂徠学・宣長学の相関

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 『弁名』は、『弁道』とともに、江戸中期の儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)の代表的著作で、『弁道』は総論、『弁名』は各論に相当します。

 「弁」とは、「弁別(判断)する」という意味なので、総論の『弁道』とは、「道」を判断することで、徂徠学では、先王(孔子以前の有徳な帝王達)の道のことです。

 一方、各論の『弁名』とは、「名」を判断すること、「名」とは、内実の「物」が表現された外形で、時代の経過とともに、名が実からズレていき、徂徠学では、6経(『詩』・『書』・『礼』・『楽』・『易』・『春秋』)当時の先王が主要とした、物(実物)の名(名称)のことです。

 ここでは、『弁名』を読解していくことにします。

 

 

■上巻

 

○緒言

・自生民以来、有物有名。名故有常人名焉者。是名於物之有形焉者已。至於物之亡形焉者。則常人之所不能睹者、而聖人立焉名焉。然後雖常人可見而識之也。謂之名教。故名者教之所存、君子慎焉。孔子曰、名不正則言不順。蓋一物紕繆、民有不得其所者焉。可不慎乎。

 

[生民より以来、物あれば名あり。名は故(もと)より常人の名づくる者あり。これ物の形ある者に名づくるのみ。物の形、亡(な)き者に至りては、すなわち常人の睹(み)ること能(あた)わざる所にして、聖人これを立てて、これに名づく。しかる後、常人といえども、見て、これを識(し)るべきなり。これを名教という。ゆえに名なる者は、教えの存する所にして、君子これを慎む。孔子いわく、「名、正しからざれば、すなわち言、順ならず」と。けだし一物、紕繆(ひびゅう)すれば、民、その所を得ざる者あり。慎まざるべけんや。]

 

《人類誕生以来、物があれば、名がある。名には元々、普通の人が名づけたものがある。これ(普通の人)は、物の有形なものだけに名づける。物の無形なものにいたっては、つまり普通の人が見ることができないものなので、聖人が、これ(無形の物)を確立して、これに名づけた。そうしてはじめて、普通の人といっても、見れば、これ(無形の物)を知ることができたのだ。これを名教という。よって、(物の)名なるものは、(聖人の)教えがあるものなので、君子(立派な人)は、これ(物の名)に慎重になる。孔子がいう、「名が正しくなければ、つまり言葉が順当でない」(『論語』13-305)と。思うに、ひとつの物を誤れば、民は、その(正しい名の)ことを得られないものとなった。慎重にならないことができようか(いや、できない)。》

 

・孔子既歾、百家坌涌、各以其所見以名之、物始舛矣。独七十子徒、慎守其師説以伝之。

 

[孔子すでに歾(ぼっ)して、百家、坌涌(ふんよう)し、各(おの)おのその見る所をもってして、もってこれに名づけ、物、始めて舛(たが)えり。独(ひと)り七十子の徒、慎みて、その師説を守りて、もってこれを伝う。]

 

《孔子は、すでに死没し、諸子百家(様々な学者・学派)が湧き起こり、各々それ(学派)が見ることによって、それでこれ(物)に名づけ、物がはじめて(名と)食い違うようになった。孔子の直弟子達だけが慎重になって、その師(孔子)の教説を守り、それでこれ(物の名)を伝えた。》

 

・迨乎漢代、人異経、経異家。其言雖人人殊、要皆七十子之徒所伝也。雖有舛焉者乎、此之所失、彼或存焉者亦有之。参彼此以求之、庶乎名与物不舛也邪。伝旧故也。馬融鄭玄旁通諸家、有所稽定、斯有所擯斥。於是乎顓門之学廃、而名与物舛焉者、不復可得而識矣。所不伝者多故也。豈不惜乎。

 

[漢代に迨(およ)んで、人ごとに経を異にし、経ごとに家を異にす。その言は、人人殊(こと)なりといえども、要するに皆、七十子の徒の伝うる所なり。舛(たが)う者ありといえども、此(こ)れの失う所は、彼或いは存する者もまた、これあり。彼此(ひし)を参(まじ)えて、もってこれを求めば、名と物と舛わざるに庶(ちか)からんか。旧(ふる)きを伝うるがゆえなり。馬融・鄭玄(じょうげん)は、旁(ひろ)く諸家に通じ、稽定(けいてい)する所あれば、ここに擯斥(ひんせき)する所あり。ここにおいてか顓門(せんもん)の学、廃して、名と物と舛える者、復(ま)た得て識(し)るべからず。伝えざる所の者、多きがゆえなり。あに惜しからずや。]

 

《(前)漢代におよんで、人ごとに経書が異なり、経書ごとに学派が異なった。その言葉は、人ごとに異なるといっても、要するに、すべて孔子の直弟子達が伝えたことだ。食い違うものがあるといっても、こちらで消失していることは、あちらで残存しているものも、また、これ(伝わっていること)がある。こちらとあちらをまじえて、それでこれ(物の名)を探し求めれば、名と物が食い違わないのに、近いだろうか。古いものを伝えたからだ。(しかし、後漢代の)馬融・鄭玄(馬融の弟子、古文・今文を兼修)は、広く諸学派に通じ、考え定めることがあったので、そこで排斥することがあった。こういうわけで、専門の学問が荒廃し、名と物が食い違うものは、再び(正しい名のことを)得て知ることができなくなった。伝えないことが多くなったからだ。どうして惜しくないのか(いや、惜しい)。》

 

・自厥以降、世載言以移。唐有韓愈而文古今殊焉。宋有程朱而学古今殊焉。之数君子者、皆稟豪傑之資、雄視一世、慷概自奮、輒以聖人之道為己任焉。然其秉心之鋭、能遑論其世哉。迺意自取諸理、而謂聖人之道在是矣。殊不知、今言非古言、今文非古文、吾居於其中、而以是求諸古、迺能得其名者幾希。且理者、莫不適者也。吾以我意而自取之、是安能得聖人所為物者哉。名与物失焉。而能得於聖人之道、未之有也。故程朱所為名、亦其所自見耳。非七十子之徒所伝孔子之道也。則亦非古先聖王之道也。故欲求聖人之道者、必求諸六経、以識其物。求諸秦漢以前書、以識其名、名与物不舛而後聖人之道可得而言焉已。故作弁名。

 

[それより以降、世は言を載(の)せて、もって移る。唐に韓愈(かんゆ)ありて、文、古今、殊(こと)なり。宋に程・朱ありて、学、古今、殊なり。この数、君子の者は皆、豪傑の資を稟(う)け、一世に雄視し、慷概(こうがい)自奮し、すなわち聖人の道をもって己(おの)が任と為(な)す。しかれども、その心を秉(と)るの鋭き、よくその世を論ずるに遑(いとま)あらんや。すなわち意もて、自(みずか)らこれを理に取りて、聖人の道ここに在(あ)りといえり。殊(こと)に知らず、今言は古言にあらず、今文は古文にあらず、吾その中に居(お)りて、これをもってこれを古(いにしえ)に求めば、すなわち、よくその名を得る者の幾希(すくな)きことを。かつ、理なる者は、適(ゆ)かざることなき者なり。吾(われ)、我が意をもって、自らこれを取らば、これ安(いずく)んぞ、よく聖人の物と為(な)す所の者を得んや。名と物と失えり。しこうして、よく聖人の道を得る者は、未(いま)だこれあらざるなり。ゆえに程・朱の名と為(な)す所もまた、その自ら見る所のみ。七十子の徒の伝うる所の孔子の道にあらざるなり。すなわち、また古先聖王の道にもあらざるなり。ゆえに聖人の道を求めんと欲する者は、必ずこれを六経に求めて、もってその物を識(し)り、これを秦・漢以前の書に求めて、もってその名を識り、名と物と舛わずして、しかる後、聖人の道、得ていうべきのみ。ゆえに弁名を作る。]

 

《それ以降、時代は、言葉を載せて流れ、それで移り変わった。唐代に、韓愈(古文復興運動を提唱)がいて、文章が古今で異なった。宋代に、程子(程顥/ていこう+程頤/ていい兄弟)・朱子(朱熹/しゅき、朱子学を大成)がいて、学問が古今で異なった。この数人の君子達は皆、豪傑の資質を授かって生まれ、その時代に英雄視され、悲憤して自身で奮起し、つまり聖人の道を自己の任務とした。しかし、かれらの心持ちが鋭く、充分にその(古い文章・古い学問の)時代を論考する暇がないのだ。つまり、意志によって、自身でこれ(今の文章・今の学問)を理に取り入れて、聖人の道がここに存在するといった。意外にも、今の言葉は、古い言葉でなく、今の文章は、古い文章でなく、私は、その(今の言葉・今の文章の)中にいて、これによって、これ(物の名)を昔に探し求めても、つまり充分にその名を得るものが少ないことを、知らない。そのうえ、理なるものは、不適なことがないのだ。私は、私の意志によって、自身でこれ(理)に取り入れれば、これ(今の言葉・今の文章)でどうして充分に聖人の物とすることを得るのか(いや、得られない)。(古い言葉・古い文章の)名と物を消失している。そうして、充分に聖人の道を得たというものは、まだこれ(聖人の道)でないのだ。よって、程子・朱子が名としたことも、また、かれら自身が見ただけのことだ。孔子の直弟子達が伝えたこととしての、孔子の道ではないのだ。つまり、また、古代の先王・聖王の道でもないのだ。よって、聖人の道を探し求めようとするものは、必ずこれ(物の名)を6経に探し求めて、それでその(古い言葉・古い文章の)物を知り、これ(その物)を秦代・漢代以前の書に探し求めて、それでその(古い言葉・古い文章の)名を知り、名と物が食い違わないで、そうしてはじめて、まさに聖人の道を得たということができる。よって、『弁名』を制作した。》

 

 

(つづく)