「茶の本」の中の「老子」・「荘子」 | ejiratsu-blog

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岡倉天心「茶の本」考察

岡倉天心「茶の本」英文と和訳の抜粋1~5

「老子」読解1~4

「老子」の字義1~4

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 岡倉天心の『茶の本』は、道家(道教)の老荘思想の影響が多大なので、ここでは、『茶の本』の中の『老子』・『荘子』の引用を、取り上げてみました。

 

 

●『老子』

 

 

○第41

・Laotse himself, with his quaint humour, says, "If people of inferior intelligence hear of the Tao, they laugh immensely. It would not be the Tao unless they laughed at it." (3章)

《老子自身、奇妙なユーモアを交えて、こういう、「もし、劣った知性の人々が〈道〉について聞けば、彼らは、大いに笑う。彼らがそれを笑わなかったならば、それは、〈道〉にならないだろう」と。》(私訳)

 

《老子みずからその奇警な言でいうに、「下士は道を聞きて大いにこれを笑う。笑わざればもって道となすに足らず。」と。》(岩p.41)

《老子自身、独特のユーモアをこめて、こんな風に述べている。「賢くない人々は道(タオ)について聞くと大笑いするものだ。もし彼らが笑わなかったとしたら、それは道(タオ)ではないということだ」。》(角p.57)

《老子自身、奇警(きけい)なユーモアをこめて言う。「知性の劣った者が『道』について聞くとき、彼らは大いに笑う。笑われないようなものは、『道』ではあるまい。」》(講p.37)

 

(41同異)上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以為道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若纇、上徳若谷、太白若辱、広徳若不足、建徳若偷、質真若渝。大方無隅、大器晩成、大音希声、大象無形。道隠無名。夫唯道、善貸且成。

 

[上士(じょうし)は道を聞けば、勤めてこれを行う。中士は道を聞けば、存するがごとく亡(な)きがごとし(存亡)。下士は道を聞けば、大いにこれを笑う。笑わざれば、もって道となすに足らず。ゆえに建言、これあり。明道は昧(くら)きがごとく、進道は退(しりぞ)くがごとく(進退)、夷道(いどう)は纇(らい)なるがごとく、上徳は谷のごとく、太白(たいはく)は辱(けが)れたるがごとく、広徳は足らざるがごとく、建徳は偷(うす)きがごとく、質真は渝(かわ)るがごとし。大方は隅(ぐう)なく、大器は晩成し、大音は希声にして、大象は無形なり。道は隠れて名なし。夫(そ)れただ道は善(よ)く貸して、かつ成す。]

 

《上位の士は、道を聞けば、努めてこれ(道)を行う。中位の士は、道を聞けば、(道が)あるようなもので、ないようなものだ。下位の士は、道を聞けば、大いにこれ(道)を笑う。(しかし、)笑わなければ、それで道をなすのに不足だ。よって、格言は、ここにある。明らかな道は、暗いようなもので、進む道は、退くようなもので、平らな道は、傷があるようなもので、上位の徳は、谷間のようなもので、潔白は、ケガレのようなもので、広い徳は、不足のようなもので、高い徳は、薄いようなもので、質素・誠実は、変わるようなものだ。偉大な四方は、隅々がなく、偉大な器は、遅く完成し、偉大な音は、かすかな声で、偉大な現象は、無形だ。道は、隠れて名がない。そもそも、ただ道は、よく貸し与えて、そのうえ成すだけだ。》

 

 

○第25

・Laotse himself spoke of it thus: "There is a thing which is all-containing, which was born before the existence of Heaven and Earth. How silent! How solitary! It stands alone and changes not. It revolves without danger to itself and is the mother of the universe. I do not know its name and so call it the Path. With reluctance I call it the Infinite. Infinity is the Fleeting, the Fleeting is the Vanishing, the Vanishing is the Reverting." (3章)

《老子自身、それ(〈道〉/The Tao)をこう語った。「天と地の存在の前に生まれた、すべてを含むものがある。なんと静寂か。なんと孤独か。それは、孤立して変化しない。それは、それ自身を危険にすることなく回転し、宇宙の母だ。私は、その名を知らないので、それを〈通路〉と呼んでいる。仕方なく、それを無限と呼ぶ。無限は、はかない消去で、はかない消去は、永遠で、永遠は、回帰だ。》(私訳)

 

《老子みずからこれについて次のように言っている。「物有り混成し、天地に先だって生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。独立して改めず。周行して殆(あやう)からず。もって天下の母となすべし。吾(われ)その名を知らず。これを字(あざな)して道という。強(し)いてこれが名をなして大という。大を逝(せい)といい、逝を遠といい、遠を反という。」》(岩p.41)

《老子自身はこんな風に語っている。「あらゆるものをはらんだ、天地に先だって生まれたものがある。なんと静かなことだろう。なんと孤独なことだろう。ひとりきりで立ちあがり、そのまま変わることがない。やすやすと自転し、万物の母となる。その名を知らないので道と呼ぼう。無限と言ってもかまわない。無限はすばやいということであり、すばやいということは消滅するということであり、消滅するとは戻ってくるということである」。》(角p.57-58)

《老子自身はこれについて次のように語った。「万物を蔵する物が存在していて、『天』と『地』の存在以前に生じた。何たる静寂!何たる寂寥(せきりょう)!それは独りで立ち、不変である。自転するがみずからに危険を招くことがなく、宇宙の母である。私はその名を知らない。そこでそれを『径路(パス)』と呼ぶ。不本意ながら私はそれを『無限(インフィニティ)』と呼ぶ。『無限』は『迅速(フリーティング)』であり、『迅速』は『消滅(ヴァニッシング)』であり、『消滅』は『回帰(リヴァーティング)』である。」》(講p.37-38)

 

(25象元)有物混成、先天地生。寂兮寥兮、独立(而)不改、周行而不殆、可以為天下母。吾不知其名、字之曰道、強為之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大、而王居其一焉。人法地、地法天、天法道、道法自然。

 

[物ありて混成し、天地に先だちて生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり、独立して改まらず、周行して殆(あやう)からず。もって天下の母となすべし。吾その名を知らず。これに字(あざな)して道という。強(し)いてこれが名をなして大という。大を逝(せい)といい、逝を遠といい、遠を反という。ゆえに道は大、天は大、地は大、王もまた大なり。域中(いきちゅう)に四大ありて、王はその一に居る。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。]

 

物があり、混じり合ってひとつになり、天地に先立って生じる。さびしく・ひっそりとし、独立して改められず、隅々まで行き渡って危なくない。それで天下の母となることができる。私は、その名を知らない。これに通称し、道という。あえてこれが名をなせば、大(偉大)という。大を逝(往/いく)といい、逝を遠(永遠)といい、遠を反(還/かえる)という。よって、道は大で、天は大で、地は大で、王もまた大だ。域内に4つ(道・天・地・王)の大があって、王はその1つにいる。人は地にしたがい、地は天にしたがい、天は道にしたがい、道は自然にしたがう。》

 

 

○第15

・He tempers his own brightness in order to merge himself into the obscurity of others. He is "reluctant, as one who crosses a stream in winter; hesitating as one who fears the neighbourhood; respectful, like a guest; trembling, like ice that is about to melt; unassuming, like a piece of wood not yet carved; vacant, like a valley; formless, like troubled waters." (3章)

《彼(道教の真の人/the Real man of the Taoist)は、他人の無名の中に、自分自身を溶け込ませるために、自分自身の明るさを和らげた。彼は、「冬の小川を渡る者のように、躊躇(ちゅうちょ)する。近所を恐れる者のように、ためらう。客人のように、尊重する。溶けようとする氷のように、震える。まだ彫られていない木片のように、控えめだ。谷のように、空虚だ。荒れ狂う水のように、無形だ。」》(私訳)

 

《おのが身を世に知れず隠さんために、みずからの聡明(そうめい)の光を和らげ、「予(よ)として冬、川を渉(わた)るがごとく、猶(ゆう)として四隣をおそるるがごとく、儼(げん)としてそれ客のごとく、渙(かん)として冰(こおり)のまさに釈(と)けんとするがごとく、敦(とん)としてそれ樸(ぼく)のごとく、曠(こう)としてそれ谷のごとく、渾(こん)としてそれ濁るがごとし。」》(岩p.46-47)

[注:「予として」は前を見、後をおもんぱかるの意。「猶として」は疑いて行かざるの意。渙は物の離散するをいう。敦は敦原の意。樸はあら木。渾は混に同じ、濁るかたち。] (岩p.91)

《彼は、自分の聡明さを抑えて人々の愚かさに同化する。彼は「冬の川を渡る者のようにおそるおそると、あたりをはばかる者のようにびくびくと、客に招かれた者のようにうやうやしく、溶けかかった氷のように震えおののき、まだ彫られていない木切れのようにつつましやかに、谷のようにからっぽで、奔流のように混沌(こんとん)としている」。》(角p.66-67)

《彼は世人の蒙昧(もうまい)へもぐりこむために自分の明敏(めいびん)を和らげる。彼は「冬、川を渡る人のように気の進まない様子であり、隣近所を怖れる人のようにためらっている。客のように丁重であり、まさに溶けようとする氷のように戦々恐々としている。まだ削られていない木材のように朴訥(ぼくとつ)であり、谷のように虚ろであり、波立つ海のように混沌としている。」》(講p.44)

 

(15顕徳)古之善為士者、微妙玄通、深不可識。夫唯不可識。故強為之容。与(予)兮若冬渉川、猶兮若畏四隣、儼兮其若容、渙兮若氷(之)将釈、敦兮其若樸、曠兮其若谷、混兮其若濁。孰能濁以静之徐清。孰能安以久動之徐生。保此道者、不欲盈。夫唯不盈。故能蔽不新成。

 

[古(いにしえ)の善(よ)く士為(た)る者は、微妙・玄通、深く識(し)るべからず。夫(そ)れただ識るべからず。ゆえに強(し)いてこれが容をなせば、与(よ)として、冬に川を渉(わた)るがごとく、猶(ゆう)として、四隣(しりん)を畏るるがごとく、儼(げん)として、それ客のごとく、渙(かん)として、氷のまさに釈(と)けんとするがごとく、敦(とん)として、それ樸(ぼく)のごとく、曠(こう)として、それ谷のごとく、混として、それ濁(にご)れるがごとし。孰(たれ)か能(よ)く濁りて、もってこれを静かにして、徐(おもむ)ろに清(す)まさん。孰か能く安んじて、もってこれを動かして徐ろに生ぜん。この道を保つ者は、盈(み)つるを欲せず。夫れただ盈たず。ゆえに能く敝(やぶ)れて新たに成さず。]

 

《昔のよい士になる者は、精妙・すべてに精通しているので、(人々が)深く知ることはできない。そもそも、ただ知ることはできない。よって、あえてこれ(よい士)を形容すれば、ためらって冬に川を渡るようなもので、ためらって四周の近隣を恐れるようなもので、おごそかにそれは客人のようなもので、明らかに氷がちょうど解けるようなもので、手厚くてそれは原木のようなもので、明らかにそれは谷のようなもので、混じってそれは濁ったようなものだ。誰が充分に濁って、それでこれを静かにして、ゆっくりと清めるのか(いや、清めない)。誰が充分に安らかにして、それでこれを動かして、ゆっくりと生じるのか(いや、生じない)。この道を保つ者は、満たそうとしない。そもそも、ただ満たさないだけだ。よって、充分に壊れても新しく成さない。》

 

 

○第67

・To him the three jewels of life were Pity, Economy, and Modesty. (3章)

《彼(道教の真の人/the Real man of the Taoist)にとって、人生の3つの宝は、慈悲・倹約・謙虚だ。》(私訳)

 

《士にとって人生の三宝は、慈、倹、および「あえて天下の先とならず。」ということであった。》(岩p.91)

《道士にとって、人生の三つの宝とは、慈悲と節制と謙虚である。》(角p.67)

《彼にとって人生の三つの宝玉は「慈悲」と「倹約」と「謙虚」であった。》(講p.44)

 

(67三宝)天下皆謂我道大似不肖。夫唯大故、似不肖。若肖久矣、其細也夫。我有三宝、持而保之。一曰慈、二曰倹(険)、三曰不敢為天下先。慈故、能勇。倹故、能広。不敢為天下先故、能成器長。今舍慈且勇、舍倹且広、舍後且先、死矣。夫慈以戦則勝、以守則固。天将救之、以慈衛之。

 

[天下、皆、我が道を大にして、不肖に似たりという。夫(そ)れただ大なる故(ゆえ)に、不肖に似たり。もし肖なれば、久しいかな、その細なることや。我に三宝あり、持(じ)してこれを保つ。一にいわく慈、二にいわく倹、三にいわく敢(あ)えて天下の先とならず。慈なるゆえに、よく勇なり。倹なるゆえに、よく広し。敢えて天下の先とならずゆえに、よく器の長となる。今、慈を舎(す)てて、まさに勇ならんとし、倹を舎てて、まさに広がらんとし、後を舎てて、まさに先んぜんとすれば、死せん。夫れ慈はもって戦えば、すなわち勝ち、もって守れば、すなわち固し。天、まさにこれを救わんとし、慈をもってこれを衛(まも)る。]

 

《天下はすべて、わが道を偉大にして、愚か者に似ているという。そもそも、ただ偉大なだけによって、愚か者に似ている。もし賢者ならば、長く続くな、それが細々となるのは。私に3つの宝物があり、所持してこれを保守する。1つ目は慈悲、2つ目は倹約、3つ目はあえて天下の先とならない。慈悲になることによって、充分に勇ましくなる。倹約になることによって、充分に広がる。あえて天下の先にならないことによって、充分に器の長となる。現在、慈悲を捨てて、今にも勇ましくなろうとし、倹約を捨てて、今にも広がろうとし、後を捨てて、まさに先んじようとすれば、死ぬだろう。そもそも慈悲は、それで戦えば、つまり勝ち、それで守れば、つまり固い。天は今にもこれを救おうとし、慈悲によって、これを守る。》

 

 

○第5

・Said Laotse: "Heaven and earth are pitiless." (6章)

《老子がいう、「天と地は、無情だ」と。》(私訳)

 

《老子いわく「天地不仁。」》(岩p.78)

《老子は言った。「天地は無情なものだ」。》(角p.127)

《老子は言った、「天と地は無慈悲である。」》(講p.84)

 

(5虚用)天地不仁、以万物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗。天地之間、其猶橐籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言数窮。不如守中。

 

[天地は不仁にして、万物をもって芻狗(すうく)となす。聖人は不仁にして、百姓をもって芻狗となす。天地の間は、それなお橐籥(たくやく)のごときか。虚にして屈(つ)きず、動きて、いよいよ出(い)ず。多言はしばしば窮す。中(ちゅう)を守るにしかず。]

 

天地は、不仁で、万物を、ワラで結んで作った犬(取るに足らないもの)とする。聖人は、不仁で、百姓を、ワラで結んで作った犬とする。天地の間は、それがちょうどフイゴのようなものなのだ。虚無でも尽きず、動けば、ますます(万物が)生み出される。口数が多いのは、しばしば行き詰まる。心中を守るのには及ばない。》

 

 

●『荘子』

 

○外篇・秋水篇・第17(知魚楽)

・One day Soshi was walking on the bank of a river with a friend. "How delightfully the fishes are enjoying themselves in the water!" exclaimed Soshi. His friend spake to him thus: "You are not a fish; how do you know that the fishes are enjoying themselves?" "You are not myself," returned Soshi; "how do you know that I do not know that the fishes are enjoying themselves?" (3章)

《ある日、荘子が、友人と川の土手を歩いていた。「なんて魚が水の中で、喜んで楽しんでいるのか」と、荘子が叫んだ。彼の友人が、彼にこういった、「あなたは、魚でない。どうしてあなたは、魚が楽しんでいるのが、わかるのか」と。「あなたは、私自身ではない」と、荘子が答えた。「どうしてあなたは、魚が楽しんでいるのが、私にはわからないと、わかるのか」と。》(私訳)

 

《ある日荘子友と濠梁(ごうりょう)のほとりに遊んだ。荘子いわく「儵魚(じょうぎょ)いで遊びて従容(しょうよう)たり。これ魚の楽しむなり。」と。その友彼に答えていわく「子(し)は魚にあらず。いずくんぞ魚の楽しきを知らん。」と。「子は我れにあらず、いずくんぞわが魚の楽しきを知らざるを知らん。」》(岩p.48-49)

《ある日、荘子は友人と川堤を歩いていた。「なんとうれしそうに魚たちは水の中を泳いでいるのだろう」と荘子は感嘆した。これを聞いて友人は言った。「君は魚でもないのにどうして魚たちが楽しんでいるとわかるのか」。荘子は答えた。「君は私でないのに、どうして魚たちが楽しんでいることを私がわからないとわかるのか」。》(角p.70)

《或る日、荘子は一友人と河のほとりを歩いていた。「なんと楽しく魚は水の中で泳いでいることか!」と荘子は叫んだ。友人は荘子に次のように言った。「君は魚でないのに、どうして魚が楽しんでいるとわかるのかね」「君は私でない」と荘子は答えた。「それなのにどうして、魚が楽しんでいるのが私にわからないことが君にわかるのかね。」》(講p.47)

 

・荘子与恵子遊於濠梁之上。

荘子曰、鯈魚出遊従容。是魚楽也。

恵子曰、子非魚。安知魚之楽。

荘子曰、子非我、安知我不知魚之楽。

恵子曰、我非子、固不知子矣。子固非魚也。子之不知魚之楽、全矣。

荘子曰、請循其本。子曰、女安知魚楽、云者、既已知吾知之而問我。我知之濠上也。

 

[荘子、恵子と濠梁(ごうりょう)の上にて遊ぶ。

荘子いわく、「鯈魚(ゆうぎょ)出(い)でて遊び従容(しょうよう)たり。これ魚の楽しみなり」と。

恵子いわく、「子、魚にあらず。安(いずく)んぞ魚の楽しみを知らん」と。

荘子いわく、「子、我にあらず。安んぞ我の魚の楽しみを知らざるを知らん」と。

恵子いわく、「我、子(し)にあらず。固(もと)より子を知らず。子、固より魚にあらざるなり。子の魚の楽しみを知らざること、全(まった)し」と。

荘子いわく、「請(こ)う、その本(もと)に循(したが)わんを。子いう、『女(なんじ)安(いずく)んぞ魚の楽しみを知らん』というは、既已(すで)に吾のこれを知れるを知りて、我に問いしなり。我、これを濠(ごう)の上にて知れり」と。 ]

 

《荘子が、恵子と、濠川の橋梁の上を散歩していた。

荘子がいう、「魚が(水面に)出て、ゆったりている。これが魚の楽しみなのだ」と。

恵子がいう、「あなたは、魚でない。どうして魚の楽しみをわかるのか」と。

荘子がいう、「あなたは、私でない。どうして私が魚の楽しみをわからないと(あなたが)わかるのか」と。

恵子がいう、「私は、あなたでない。元々、あなたをわからない。あなたは、元々、魚でないのだ。あなたが魚の楽しみをわからないのは、完全(にそう)だ」と。

荘子がいう、「願おう、その根本にしたがうことを。あなたがいった、『あなたは、どうして魚の楽しみをわかるのか』といったのは、すでに私がこれをわかると(あなたが)わかっていて、私に尋ねたからだ。私は、これ(あなたがわかっていること)を、濠川(の橋梁)の上で、わかっていた」と。》