ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、ティモシー・シャラメ、ゼンデイヤ、レベッカ・ファーガソン、ハビエル・バルデム、ジョシュ・ブローリン、オースティン・バトラー、デイヴ・バウティスタ、フローレンス・ピュー、スエイラ・ヤクーブ(フレメンの戦士・シシャクリ)、レア・セドゥ、ステラン・スカルスガルド、シャーロット・ランプリング、クリストファー・ウォーケンほか出演の『デューン 砂の惑星 PART2』。
IMAXレーザー字幕版で鑑賞。
その惑星を制する者が全宇宙を制すると言われる砂の惑星デューン(アラキス)で繰り広げられたアトレイデス家とハルコンネン家の戦い。ハルコンネン家の陰謀により一族を滅ぼされたアトレイデス家の後継者ポール(ティモシー・シャラメ)は、ついに反撃の狼煙を上げる。砂漠の民フレメンのチャニ(ゼンデイヤ)と心を通わせながら、救世主として民を率いていくポールだったが、宿敵ハルコンネン家の次期男爵フェイド=ラウサ(オースティン・バトラー)がデューンの新たな支配者として送り込まれてくる。(映画.comより転載)
2021年公開の『DUNE/デューン 砂の惑星』の続篇。
前作については1984年制作のデヴィッド・リンチ監督による最初の映画化作品と比較して結構あれこれと辛辣なことも述べましたが、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による前作とこの続篇が2020年代の「デューン」映画化作品に相応しいことに疑問はないのをお断わりしたうえで、前回と同様に僕の個人的な好みで感想を書いていきます。
やはりリンチ版と比べてしまうのは避けられないため「いちいち昔の映画を引き合いに出して、うるせぇな」と思われるでしょうが、少年時代に刷り込まれて以来、どうしても「デューン」といえば僕にとってはリンチ版のあのヴィジュアル、音楽のイメージが頭から離れないので。
音楽は前作から引き続きハンス・ジマーが受け持っていて、このヴィルヌーヴ版の重厚さにとてもよく合っていると思いますが、僕はシンセサイザーも駆使して勇ましかったり美しいメロディが流れるTOTOとブライアン・イーノによるリンチ版のサントラが好きなので、どうしてもこの新作を観ながら時々あの音楽が耳の中で高鳴ってしょうがなかった。
かように僕は個人的にデヴィッド・リンチ監督版『デューン』に思い入れがありますが、ちまたでのあの作品の評判はけっしてよろしくないですから、僕の評価や両作品の比較自体がほとんどのかたがたには参考にならないと思います。
前作『PART ONE』が好きだったかたは今回もまず間違いはないでしょうし、気になるかたはIMAXなどなるべく大きなスクリーンでご覧になっていただくとよいのではないかと。
この『デューン 砂の惑星 PART2』は一部のYouTuberや映画ライターからは「神作」みたいにめちゃくちゃ持ち上げられている一方で、一般の観客の反応はどうかというと、酷評はないけれどもそこまで盛り上がっている様子も見られない。
お客さんは入っているようだからコケることはないだろうし、多分「普通に面白かった」と言ってる人たちも多いでしょう。
で、僕も前作の感想に書いたように「絶対に続篇を作ってほしい」と思ったし、もちろん公開されれば必ず観るつもりでいました。つまり、普通に楽しみにしていたのです。
前作では出てこなかったためにやきもきさせられて感想にもその不満を書いた皇帝やハルコンネン男爵の甥フェイド=ラウサ(それから皇帝の娘イルーラン姫も)も登場して、物語が大きく動き出す。
主要登場人物たち
この2作目の最後で、ようやくリンチ版のラストまでが描かれます。
ちなみに、前作でも申し上げたように僕はフランク・ハーバートによる原作小説は一切読んでいないので、あくまでも映画版を観ての感想です。
この映画はクリストファー・ノーラン監督が『スター・ウォーズ エピソード5 帝国の逆襲』を例に挙げて語っていたように、三部作の中間のような位置で、劇的な要素も多いし「前作よりも好き」というかたも大勢いらっしゃるでしょうね。
お互いにリスペクトし合いながら裏ではIMAXキャメラを奪い合っていた、まるでアトレイデス家とハルコンネン家のような2人の監督たち(笑)
僕も、前作から観続けてきて、やっと面白くなってきたな、という感じはあった。
ただまぁ、原作は知らないものの、僕はすでに映像化されたものを2度(2度目はTVドラマ版)観ているわけで、だからもう知ってる話を繰り返されてるからストーリー的な新鮮味はなかった。
あえて言うなら、惑星アラキス(=デューン)の先住民フレメンの戦士でティモシー・シャラメ演じる主人公ポール・アトレイデスと愛し合うようになる女性チャニ(ゼンデイヤ)が、ポールを“救世主”として熱狂的に崇める民の視点から離れて彼を不安げに見つめている、という描き方がされていて、そこはヴィルヌーヴ監督が意識して演出したところかな、と思った。
今回、皇帝とともに初登場するイルーラン姫が語り部となってこの物語を伝えているところはリンチ版と同じだし、またリンチ版には登場しなかったキャラクター、魔女集団「ベネ・ゲセリット」のマーゴット・フェンリング(レア・セドゥ)が出番は少ないながらも、さらなる続篇の鍵を握りそうな女性としてフェイド=ラウサ(オースティン・バトラー)と絡む。
ドキュメンタリー映画『ホドロフスキーのDUNE』のプロデューサーのミシェル・セドゥはレア・セドゥの大叔父ということで、たまたま偶然なのか、そこはヴィルヌーヴ監督としてはあえての起用だったんでしょうかね。ベネ・ゲセリットのモヒアム教母を演じているシャーロット・ランプリングも、もともとはアレハンドロ・ホドロフスキー版の「デューン」で出演を依頼されていた(ポールの母レディ・ジェシカ役)ということだから。ホドロフスキーが送ったシナリオに男たちの放尿シーンがあって、そこに彼女も立ち会わなければならなかったので、呆れて断わったそうだが(笑)
『デューン 砂の惑星 PART2』で女性のキャラクターたちはとても重要な役柄ながら、そして出演した女優たちはそれぞれが存在感を発揮してはいたのだけれど、この作品で全員がしっかりと物語的に見応えのある演技が披露できているかというと、やはり物足りないんですよね。
今回の作品だけでは描き切れていないことが多い。
今回は、レディ・ジェシカ(レベッカ・ファーガソン)とヘレン・モヒアム教母とチャニかなぁ、キャラクターとしてより深く描かれていたのは。特にジェシカは前作から大きく変化を見せるし。もとはベネ・ゲセリットの出である彼女は、かつての師であるモヒアム教母をも超えるような企みを自ら始めてフレメンたちを扇動する。息子のポールさえも利用して。
また、終盤にはジェシカの出自の秘密も明かされる。宿敵の一族の血を継いでいた彼女は、見方によってはもっとも危険な存在と言えるのかもしれない。
ジェシカは、なき公爵レト・アトレイデスの娘でポールの妹となる“アリア”を身籠っていた。
わずかワンシーンだけ、砂漠の向こうに海が見える風景と成長したアリアの幻影(未来の姿)が映し出されて、彼女をアニャ・テイラー=ジョイが演じている。
『マッドマックス:フュリオサ』の主人公がポールさんの妹だったとは。砂漠繋がりか(なんか巧いこと言ったつもり)。
でも、アリアはまだ産まれてもいないわけで、彼女が活躍するのは次回までおあずけ。
皇女イルーランも、演じるフローレンス・ピューの顔ヂカラのおかげもあって存在感は抜群だったけれど、本当に彼女が重要なキャラクターになっていくのは、ラストで皇帝となったポールに娶られたあとの次回作でしょう。
『帝国の逆襲』みたい、というのはそういうことで、めっちゃ盛り上げといて「続きは3作目で!」と言って終わる。またそれかいっ!^_^;と。
いや、観ますよ、3作目が作られたら観ますけどね。監督は今、脚本書いてるそうだし。
でも、SF大作が2本続いたから次は別の企画をやりたいようで、だから『PART THREE』までは結構間が空くかもしれないですね。
デヴィッド・リンチが137分にまとめた(長尺版は189分)のと同じ話を5時間以上かけてようやく描き切り、しかもまだ続く、ってさぁ。壮大というか、悠長というか。
すごく気になったのは、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督って“悪役”を気持ちよく倒さないんですよね。もうわざとか、ってぐらいカタルシスがない死に方をさせる。
リンチ版のラッバーンの最期は斬首された生首だし、ハルコンネン男爵はアリアに操られてTOTOが奏でる雄大な音楽とともに砂虫(サンドワーム)の口の中に飛ばされていく。スティングが演じたフェイドも刺し殺されたうえにポールの“ヴォイス”で胸が裂けて床もろとも沈む。悪い奴らは最後にしっかりとやっつけられる。
だけど、ヴィルヌーヴ監督は勧善懲悪を避ける。だからすっきりしないんですよ。
それは、かつてのように主人公ポール・“ムアディブ”・アトレイデスを救世主として描いてめでたしめでたし、では終わらせないためだろうし、いかにも2020年代の作品、という感じはする。
だから狙いはわかるし、きっとこれでいいのでしょうが、1本の映画として単体で観ると、まさに強敵として思いっきり期待させるような登場をしておきながら、めっちゃあっけなく死ぬ奴らばかりで、エンタメとしてなんかあまり面白くないんです(VFX映像は見応えある場面はいくつもありましたが)。
ヴィルヌーヴ監督はこのシリーズをアクション映画というよりは史劇のように撮っていて、ハルコンネン家も単なる悪役ではなくて、いかに権勢を誇ろうともさらなる強大な存在の前では無力で儚く滅びる者として描いている。
今回、満を持して登場した皇帝(クリストファー・ウォーケン)が、ポールの前で力なくかしずくように。
そして、それは新たに皇帝の座に就いたポールにも言えること。
チャニのまなざしには、その不穏な未来が見えているようだった。
父を殺され、由緒ある大領家であった一族を滅亡に追いやった宿敵に復讐を誓った主人公が、今度は強大な力を持つに至って圧制者となる。
そこにまるで本物の歴史の世界を見ているような魅力を感じる。─それはとてもよくわかる。
なので、僕はこのシリーズを観てよかったし、しっかりと物語が終わりを迎えるまでお付き合いしたいと思っています。
さて今回、皇帝や各領家は「核兵器」を所有していることが明かされる。
ポールはそれを用いて(予告でも爆発が映っている)皇帝の軍を制圧する。
リンチ版でも同じ場面で核兵器が使われていたので、そのくだりは原作にもあるんでしょう。
なんでSFファンタジーに現実の世界に存在する核兵器を登場させるのかなぁ(スター・ウォーズのデス・スターのレーザー砲みたいに架空の超科学兵器にすればいいのに)、となんか嫌な気分がしたんですが、原作小説が書かれた時代は冷戦期だったんだし、それに現在こそは大国が核で世界を脅しているわけで、だからあたかもそれらが世界の平和を保っているのだ、と言わんばかりの今回の劇中での核兵器の扱いは、危うい均衡がやがて破られていく不安を描いているのだ、と思いました。
「デューン」って、リンチ版がそうだったように、ただ表面的に映像化すると「白人酋長モノ」「白人の救世主伝説」になっちゃうんですよね。先住民を外部から来た白人の主人公が救う、っていう。
この映画でも劇中でその辺のことには言及されていたように、ヴィルヌーヴ監督は慎重に主人公ポールをスーパーヒーローにして終わらせないようにしている。
もともと原作が『アラビアのロレンス』を下敷きにしているのだから、そのSF版である本作品がわかりやすくて最後にすっきりするような冒険映画にならないのは当たり前なのかもしれない。
優しい顔つきのティモシー・シャラメが終盤になるにしたがって険しい表情を見せるようになって、大きな声を上げてフレメンたちの指導者として振る舞うようになる。その姿はとても危険なものを感じさせる。
ティモシー・シャラメがだんだん怖くなっていくのが見事でしたね。腹の中にどす黒いものを抱えているように見えてくる。まるで少年のような面影のある彼だからこそ、それが余計に際立つ。皇帝となって、チャニという恋人がいながら前皇帝の娘を妻にする行為が、あからさまに政略的で。反発を覚えながらも、彼は母で今やフレメンの教母となったジェシカの狙いにも添っていく。
一方で、フェイド=ラウサの子種を宿したマーゴットは、モヒアム教母と結託して何やら企んでいる様子。次回作では新皇帝との間にひと悶着ありそう。
陰謀劇、歴史劇が好きな人にはこういうお話は好まれるかもしれない。
正直なところ、映像面に関しても僕は大絶賛している人たちのように夢中にはなれなかったんですが(砂漠でのVFXが多いので、ちょっと飽きたし)、巨大な採掘機の重量感、フラップター…じゃなくてオーニソプター(羽ばたき機)のバトルシーンはよかったなぁ。
ポールがサンドワームに乗って猛スピードで進んでいく場面の迫力とか、好きでしたしね。
そういえば、リンチ版には出てきた声を増幅させて撃つ「モジュール」は出てきませんでしたね。前回に続いて身体が変形したナヴィゲイター(航宙士)も登場せず、宇宙航行の様子も描かれなかった。
お楽しみはあとにとってあるんでしょうかね。
皇帝とアトレイデス家、それからハルコンネン家以外の領家、銀河の一大勢力である大領家連合も出てきていないから、3作目でついに宇宙ギルドとともに登場、とかなのかしら。
そういえば、「人間コンピューター」のハワト(スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン)ってどうなったんだっけ。リンチ版ではハルコンネンに囚われていたけど。
次回作が公開される時には、もう誰が生きてて誰が死んでたのか忘れてる可能性もあるな。前作の復習はしんどいのであまりやりたくないんだけど。
歴史劇とか時代劇って、僕は現在の価値観で批判的に見たり、解体して描き直すことで面白さを感じるので、「デューン」の世界もまた、単に古典的な中世風の世界観、人々の価値観のまま映像化するならあまり興味をそそられません。
SF的な世界と歴史劇的な世界、そして現在の私たちの価値観がぶつかり合って考えさせられるものが生まれてくれることを望んでいます。
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『デューン/砂の惑星』<4Kリマスター版>(デヴィッド・リンチ版)