デイヴ・マッカリー監督、カイル・ムーニー、マーク・ハミル、グレッグ・キニア、ジョージ・レンデボーグ・Jr.、ライアン・シンプキンズ、マット・ウォルシュ、ミカエラ・ワトキンス、ケイト・リン・シール、ジェーン・アダムス、クレア・デインズ出演の『ブリグズビー・ベア』。2017年作品。PG12。

 

外界から隔絶された場所で両親(マーク・ハミル、ジェーン・アダムス)と3人きりで住んでいる25歳のジェームス(カイル・ムーニー)は、TV番組「ブリグズビー・ベア」がお気に入りでこのドラマについて研究している。ある日、防毒マスクをつけて家の外にいると、見知らぬ車が色とりどりのランプを点けてたくさんこちらにやってきた。

 

SNSでなんとなく話題になっていて、「スター・ウォーズ」シリーズのルーク・スカイウォーカー役のマーク・ハミルが出ているらしいことを知ってちょっと興味をそそられました。

 

ただ、実は最初は観る気がなくて、鑑賞前にライムスター宇多丸さんの「ムービーウォッチメン」の批評を聴いてしまったためにすでにある程度内容を知っていた。

 

そういうハンデがなかったら、もしかしたらもっと驚けたかもしれません。

 

まぁ、宇多丸さんも仰ってたようにネタバレした部分というのは映画の冒頭なので、ストーリーの本筋はそのあと始まるんですが。

 

正直、僕は観終わって結構ダメージを食らってしまいました。

 

主人公のイタさが全部自分についてのことのように感じられて。

 

当然、“マーク・ハミル”の存在も効いてくる。

 

何にダメージを食らったのか書くとネタバレになるのでこのあとに述べますが、鑑賞後の気分はドンヨリして、いろんなことが頭の中を駆け巡って落ち着かなかった。

 

いや、ストーリーそのものは爽やかだし、観る人によっては大いに救いのあるエンディングを迎えるのですが。

 

まるで自分の醜いツラを鏡に映されて見せつけられたあと、「お前はこの映画の主人公みたいにうまくいってないけどな!(嗤)」ってな嘲りを受けたような、被害妄想みたいな状態に陥った。

 

エンディング間際で後ろの席で観ていた女性が鼻をすすり出したけど、僕が受け取ったのはおそらく彼女が覚えたのであろう感動ではなくて、憂鬱だった。

 

ショックを受けて悲しくて涙を流すのではなく、ぶざまで情けなくてこの瞬間に消えてしまいたくなるような、嫌な気分。

 

自分が触れられたくない部分に触れられたように感じた。

 

だから僕はこの映画があまり好きじゃない。

 

ただ、好きかどうかということと作品の出来は必ずしも同じではないので、多くのかたたちにこの作品が支持されているのは理解できます。ユニークな内容であることは確かだし。

 

では早速、これ以降は未見のかたはご注意ください。

 

 

映画の最初に画面に映し出される子ども向けのTV番組「ブリグズビー・ベア」を録画したものらしき映像はVHSのヴィデオテープの画質で、劣化してところどころノイズが走ったり映像が歪んだりしている。

 

「ブリグズビー・ベア」というのはこの映画のために作られた架空の番組だけど、日本でいえばちょうど教育番組の「できるかな」とか「おーい!はに丸」みたいな感じ。そこにちょっと東映のヒーロー物のテイストも混ざったみたいな。

 

そういう番組に子どもの頃からずっと入れ込んでる成人男性のお話。

 

もう、最初の場面から主人公のジェームスのモジャ毛に眼鏡という外見、喋り方、振る舞いなどが「ギーク」とか「ナード」、要するに「ヲタク」そのもので、「ブリグズビー・ベア」について両親の前で熱く語ってる様子はまるで幼児が成長し損なった姿みたいだし、番組の感想を動画で配信してるところなんかはYouTubeで「Hey guys!」とか言って映画の感想を延々語ってるあちらの素人さんそのまんま。

 

そして、そんな“息子”とまるで仮面ライダーやウルトラマン、コナンやプリキュアの話で盛り上がる親のように、いつも笑顔で優しく付き合ってくれる“父親”のテッド。

 

どこか社会不適合の子どもを気遣う親のようにも見えるが、やがて「驚愕の事実」がジェームスを襲う。

 

実はテッドとその妻エイプリルは、ジェームスがまだ生まれたばかりの赤ん坊の時に彼を誘拐してきたのだった。

 

テッドたちの家に踏み込んだ警察によってジェームスは保護され、本当の家族のもとに戻される。

 

一方、テッドとエイプリルは誘拐や監禁の罪で服役することに。

 

ここまでが映画の冒頭。

 

そこからジェームスがいかに新しい人生を生き始めるかが描かれる。

 

なんか似た映画があったな、と思ったけど、作品の構造が2016年に公開されて主演のブリー・ラーソンがオスカーを獲得した『ルーム』に非常によく似ている。

 

あの映画でヒロインの息子を演じた子役のジェイコブ・トレンブレイはつい最近『ワンダー 君は太陽』に主演してましたが、そこで彼が演じる少年オギーは「スター・ウォーズ」が好き、という設定だった。

 

いろいろ繋がるなぁ、スター・ウォーズ。

 

この『ブリグズビー・ベア』でジェームスが夢中になっているTV番組というのはまさにスター・ウォーズのことで、それはテッド役にマーク・ハミルを起用していることからも明らか。彼が唱える「強くあれ」という言葉は「フォースとともにあれ(フォースとともにあらんことを)」のもじりでしょう。内容はスター・ウォーズよりもどっちかといえばフラッシュ・ゴードンとかガーディアンズ・オブ・ギャラクシーに近いけど。主人公はクマのぬいぐるみだし、喋る星とか出てくるし。

 

そしてこの「ブリグズビー・ベア」という番組を作っていたのは、ジェームスに自分を“父”だと偽っていたテッドその人だった。「ブリグズビー・ベア」なるTV番組は実在しなかった。すべてジェームス一人のために用意されていたのだ。使っていたパソコンもネットに繋がっておらず、彼が投稿した動画に付けられたコメントは全部“両親”が書いていた。

 

ジェームスを育て、彼にブリグズビー・ベアの知識を刷り込み、まるでひきこもりのような生活を送らせていたテッドとは、大人になってもそこから卒業しようとしない者たちを生み出した“スター・ウォーズ”のことに他ならない。

 

もちろん、これを違う作品に置き換えることもできるけど、ヲタク的なものの代表として「スター・ウォーズ」というのは非常にわかりやすい喩えだ。

 

40越えてブログやTwitterでルークがどうだとかハン・ソロがこうだとかぶつくさ言ったり、『最後のジェダイ』について「あんなの俺が好きだったスター・ウォーズじゃねぇ!ムキー!!」とキレてる俺は、実の親から「『ブリグズビー・ベア』のことはもう忘れなさい」と言われて取り乱すジェームスとほとんど同じだ。

 

僕がヘコんだ理由はそういうことです。

 

そして、無事保護されて自由になったジェームスが徐々に新しい環境に馴染み、趣味の合う友人もできて自分がやりたいことを実現していく姿を観ながら、そこに僕が手に入れられなかったものが多く含まれていることに気づいた。

 

だからハッピーエンドの物語に対しても、感動よりも虚しさの方が勝ってしまったのです。

 

『ルーム』のように“部屋”の外に出た主人公が社会にうまく戻れずに苦悩する、という描写もあるにはあるけど、わりとそこんとこはスルッと解決するんですよね。ジェームスは確かにちょっとクセはあるけど、本人は結構順応性は高くて、社会に適合していく。

 

途中で一時病院に入ることになるけど、それも彼が社会に溶け込めなかったからではなくて、ちょっと過剰に張り切ったために逮捕される事態になったから。

 

 

 

僕にはジェームスはそんなに問題児には見えなかった。

 

『ルーム』は実際に一人の女性が被害に遭った拉致・監禁・強姦事件を基にした小説の映画化で、だから非常に現実味のある題材だったために、そこで描かれたものに対して「倫理的」に抵抗を覚えて批判されているかたがたもいます。

 

ただ僕はあの映画を一種の「寓話」として観たので、ジェイコブ・トレンブレイ演じる5歳の息子がヒロインに「もう一度、あの部屋に行こう」と言うのは、つらい経験に再び向き合って人生を新たに生きていくことの比喩だと思いました。彼女のような極限的な体験をしていなくても、自分に重ねられる普遍的な物語だと。「傷」についての話だから。

 

で、その部分はこの『ブリグズビー・ベア』はほんとによく似てるんですね。

 

『ルーム』で主人公の心を支配して最後に再び対峙するのが彼女にとっての忌まわしい記憶であるのに対して、この映画の場合は反対に主人公が物心ついた時から大好きで強いこだわりがある、彼の一部ともいえるものという違いはあるんだけど、主人公が絶対に忘れたり捨てたりできないもの、という共通点がある。

 

「ブリグズビー・ベア」は“元・父親”によって作られてヴィデオテープで定期的にジェームスのもとに届けられていたんだけれど、テッドは逮捕されてジェームスは実の親に保護されたために、その後、番組の続きは作られないままになっている。

 

ジェームスはそのことが堪えられない。

 

だから、本やネットで「映画の作り方」を独学で勉強して、妹のオーブリー(ライアン・シンプキンズ)に誘われて一緒に行ったパーティで知り合った、似たような趣味を持つ(初対面の時には「スター・トレック」のTシャツを着ていた)スペンサー(ジョージ・レンデボーグ・Jr.)と意気投合して、彼ややはりパーティで知り合ったオーブリーの友人のメレディス(アレクサ・デミー)たちとともに自主映画で「ブリグズビー・ベア」の新作を撮り始める。

 

 

 

主人公と仲間たちが自主映画を撮る、という物語はよくあるけれど、この『ブリグズビー・ベア』もそういう展開を経て、青春モノになっていくんですね。

 

そこにグッとくる人もいるんだろうと思う。

 

VHSのヴィデオテープ、というのがまたある世代以上の人たちの心の琴線にも触れるのだろうし。

 

70~80年代ぐらいに少年期や思春期を過ごした人たちにとって、VHSヴィデオテープというのは日常にあったアイテムだから。自主映画でも活躍していた。

 

それはまた、マーク・ハミルが主人公を演じた頃のスター・ウォーズが公開されていた時代でもある。

 

VHSというと、ミシェル・ゴンドリー監督がジャック・ブラック主演で撮った2008年の映画『僕らのミライへ逆回転』を思い出します。

 

レンタルヴィデオ店の店員が誤って貸し出し用のVHSヴィデオテープを磁気に晒して映像が消えてしまったために、自分たちで手作りでその中身の作品を撮り始める、というお話でした。

 

時代的にはすでにDVDが普及しててブルーレイも出てきてたからちょっと無理のある設定だったんだけど、やはり作り手には「VHSヴィデオテープ」へのこだわりがあったんだよね。自分が生きてきた時代を象徴してるから。

 

自作のポンコツ映画がなぜか評判になる、という展開も『ブリグズビー・ベア』と似ていた。

 

J・J・エイブラムスの『SUPER 8/スーパーエイト』や先日観た『カメラを止めるな!』もそうだけど、みんなが一丸となって作品を作る姿は微笑ましいし率直に胸が熱くもなるんだけど、ただ、僕は個人的にはああやって最後にすべてがうまくいってめでたしめでたし、という締め方に少々飽きてきていて。

 

自分がそういう成功を手にしなかったから、というのもあるけど。いや、それが強いかな。

 

ああやってちゃんと完成して、上映会もやって、しかも大勢の観客に拍手で称えられる作品がある一方で、憧れだった女性に自分の自主映画に出てほしい、と頼んだら断わられたり、撮影し始めたけど完成できなかった映像の断片、完成して上映したけど誰からもなんの反応もないまま、あるいは酷評だけされて忘れ去られた映画の屍が世の中には無数に横たわっている。

 

僕は昔、ある人に自分が撮った自主映画のヴィデオを渡したら、後日「あまりにヒドいんで最後まで観られなかった」と冷たく言い放たれたことがある。

 

また、イヴェントで知り合ったミュージシャンの人に自分の映画の音楽を作ってもらおうと思ってヴィデオを渡したら、そのまま音信不通になった。

 

「史上最低の映画監督」といわれたエド・ウッドだって彼の名前は残ってるし、その作品を愛好している人たちもいる。

 

彼やジェームスなどよりもはるかに下の人間もいるのだ。

 

スペンサーが動画サイトにあげたジェームス所有の「ブリグズビー・ベア」の映像はそのヘタウマ的な作風がファンを生み、そしてジェームスが撮ったその続篇は家族や友人たち以外の人々にも受け入れられる。

 

自分の映画の上映会が大盛況に終わったジェームスの今後はわからないが、これからも彼は「ブリグズビー・ベア」を捨てることはないだろうし、さらなる続篇を作るにしろ、完全にオリジナルのものを生み出すにしろ、彼の前には無限の可能性が広がっている。

 

これは、自分の中だけ(テッドとその妻はジェームスの心の中の存在ともいえるから)で完結していた世界から外に出て、自分が好きなものを人に説明して分かち合い、そして形にして世の中に発信する者を描いた映画だ。

 

すべてのクリエイターや何かの活動をしている者たちのことを描いている。

 

ジェームスが作った「ブリグズビー・ベア」の映画は2次創作ではあるけれど、そもそもテッドが作った番組自体がジェームスのためにあったのだから、それはもう彼のオリジナルといっていいのではないか。

 

自分が作る映画のためにテッドに声を吹き込んでもらうのも、アマチュアからプロになった映画監督が憧れだった俳優に自分の作品に出演してもらうことを表わしているようにも見える。

 

『最後のジェダイ』のあとにこの映画のマーク・ハミルを観て感動した、という人の気持ちもわからなくはない。

 

 

 

 

マーク・ハミルは現在66歳だけど見た目は完全にお爺ちゃんになってて、ルークの年老いた姿に僕は『最後のジェダイ』以上に時の流れの残酷さのようなものを感じたのでした。

 

ただですね、1本の映画として僕は特に後半になるに従ってちょっと退屈しちゃったんですよね。

 

どこにも引っかからないままサクサクとうまいこと進んでいって、映画はそのまま終わってしまう。

 

この映画に対しては、登場人物たちが全員イイ人過ぎる、という批判があるようだけど、イイ人ばかりだからってのもあるけど、単純に物語としての起伏があまり感じられなかったんですよ。

 

なんていうか、登場人物たちをもっと描き込めたんじゃないだろうか。

 

カウンセラーのエミリーはジェームスとその家族に事情を説明するだけであまり物語に絡んでこないし、ヴォーゲル刑事のことを怪しんだりジェームスを呼び出す別の刑事が出てきてひと波乱ありそうなんだけど、なんだかよくわからないままフェイドアウトしてたし。

 

 

 

エミリーを演じるクレア・デインズはちょっとグウィネス・パルトロウみたいになってて、あぁ、『ロミオ+ジュリエット』や『ターミネーター3』のあのおねえさんが大人の女性になってるなぁ、と感慨深いものがありましたが。

 

僕はこれはまったく別の展開もありえただろうと思う。

 

たとえば、映画とは関係ない話だけどスティーヴ・ブシェミが出ていた『ゴーストワールド』のような哀しい結末みたいなさ。

 

ジェームスが社会に馴染めずにブリグズビー・ベアやテッドの幻影に煽られてどんどん暴走していって…という話にだってできたんじゃないだろうか。

 

そんなつらい映画はみんな観たくないかもしれないけど、僕はむしろそういう「失敗してしまう人」の物語の方にシンパシーを覚えるし、「ブリグズビー・ベアから卒業したくない」「映画を作りたい」という想いがどんどん募って、でも行動の方は空回りしていってついに破滅を迎えるジェームスの姿に僕はきっと映画館で号泣しただろうから。

 

ブリグズビーとともに星の彼方に去っていくジェームスを見たかった。

 

まぁ、ぶっちゃけジェームスに自分を投影してるだけなんですが。

 

テッドに雇われてアルバイトで「ブリグズビー・ベア」に出演していたホイットニー(ケイト・リン・シール)も、ジェームスに乞われながら一度は彼の映画への出演を断わったにもかかわらず、完成した映画には彼女はしっかり出演している。

 

 

 

 

ジェームスの作品に対する情熱にほだされたということだろうけど、世の中にはどんなに強く願ったってかなわないこともあるでしょう。

 

さっき書いたように、僕は中高時代にずっと好きだった女子の先輩に自分の自主映画に出てほしくて頼み込んだところ、「女優の道は諦めたので、ここで中途半端にかかわると未練を残すから出られない。ごめんね」と丁寧に断わられました。すごく残念だったけど、彼女の気持ちを考えたらそれは無理もないことかな、とも。

 

そういうことだってある。

 

病院に入院しているジェームスのために家族とヴォーゲル刑事が「ブリグズビー・ベア」の美術や小道具、衣裳を調達して待っている、というのも、それはちょっとあまりにうまくいき過ぎなんじゃないかと。

 

 

 

家族が望んでいたことではなくて、ジェームスが望んでいることを家族みんなでやろう、という結論に至るのはよかったんですが。

 

もっと、映画作りの苦労みたいなものも描いてほしかったなぁ。

 

グレッグ・キニアが演じるヴォーゲルは元俳優志望という設定だったけど、彼が撮影中にこだわりのあまりどんどん深みにはまっていく、というような(演技をやり直す場面はあるけど、さらに暴走してもよかった)、「笑い」の要素をもっと入れてほしかった。

 

 

この映画のグレッグ・キニアはなんとなくマーク・ハミルに似せてるんだろうか

 

意外とそんなに笑える場面はないんだよね。

 

ジェームスの映画にかかわる女の子たちはリアルでよかったですけどね。彼女たちがヲタクの妹とその友だちにしては美人過ぎるのはともかく。スペンサーもなにげにイケメンだし。

 

途中で仲間に加わる3人目の男子の陰が異常に薄かったのは敢えてなんですかね。

 

妹のオーブリーやその友人のメレディスは、本気で「ブリグズビー・ベア」を面白がってるというよりも、ジェームスの「夢中になり具合」が可笑しくて、彼のキャラ込みで楽しんでるように見えた。

 

これも昔、自主映画に出演してくれる女性に作品の説明をしていたら、彼女がクスッと笑いながら僕に「ほんとに映画が好きなんですね」と言ったのを思い出した。

 

彼女にとっては僕の自主映画のシナリオが面白いとかじゃなくて、一所懸命説明する僕の姿が可笑しくて、その姿に「じゃあ、協力してあげよう」という気になったんでしょう(自主映画あるある)。

 

だからジェームスのピュアでひたむきな姿勢とその根気強さにまわりのみんなが好感を持ち、最後まで付き合い続けたんだろうと思う(僕には根気が欠けていた…)。

 

そしてジェームスは、僕がかつて欲しかったけど手に入れられなかったものをいくつも手に入れる。くっそー、というやっかみ。フンッ、最後は機材ごと作品が燃えちまえばよかったのに。

 

 

 

僕はこれは、自分のような「口だけ野郎」が思い浮かべた哀しい夢に思えた。これは全部ジェームスが見た「夢」なんじゃないのか(出た、一番つまらない夢オチ)、と。

 

こうあってくれたらどんなによかったか、という憧れの世界。

 

だからこそ、それを実現し損ねた自分がこの映画に重なって、ひどくつらい気持ちになったのです。

 

だったら映画の主人公も悲惨な最期を迎えてほしかった。それを観て自己憐憫の涙を流してる方が自分にとっては甘美な時間だから。

 

でも、こうやって映画を観ながら「現実」を突きつけられることも時には必要なのかもしれないなぁ。

 

 

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